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浦和地方裁判所 昭和57年(わ)29号 判決

主文

被告人を判示第一及び第四の各罪について懲役一四年に、判示第二、第三、第五ないし第八の各罪について死刑に処する。

未決勾留日数中二〇〇〇日を右懲役刑に算入する。

押収してある普通預金払戻請求書五通(昭和五五年押第三三三号の5、6、24ないし26)の各偽造部分を没収する。

理由

(被告人の身上・経歴等)

被告人は、昭和七年埼玉県深谷市において、農業兼煉瓦職人の父甲、母乙の三男として出生し、同市内の中学校を卒業後、線路工夫、大工や鳶職の手伝い、精麦工場の工員等を経て、同三四年ころからは、同県熊谷市見晴町で瓦屋を営む長谷部金藏(以下「長谷部」ともいう。)あるいは同市美土里町で瓦屋兼解体業を営む杉田富藏の手伝いをするようになり、同四五年ころから、長谷部及び杉田が不動産ブローカーをするようになると、被告人もその手伝いをしながら自ら不動産ブローカーの仕事をし、そのかたわら同市美土里町で大工をしている並木伸二の手伝いもしたりしていたものであるが、その間同二九年に妻丙と婚姻し一女をもうけ、いつたん協議離婚して再婚し現在に及んでいるものである。そして、同四六年一月ころ、長谷部の紹介で佐藤朝三(以下「佐藤」ともいう。)と知り合うところとなり、同年三月ころからは、田島不二夫(以下「田島」ともいう。)や小林隆雄(以下「小林」ともいう。)とも付き合い始め、同人らと競輪などのギャンブルに興ずるなどしていたが、定収入がないため金銭的には苦しい生活を送っていた。

(罪となるべき事実)

第一  被告人は、佐藤朝三、小林隆雄らとギャンブルに熱中し、その仲間の一人で養子名義の不動産をも担保に入れ、借金を重ねてギャンブルに金をつぎ込んでいた小林の依頼を受け、昭和四六年一一月、同人の養子龍雄名義の不動産を他へ売却してやつたが、その結果小林が約七〇〇万円を手に入れたのを機に、被告人、佐藤、小林の三名は、その金の一部を基に競輪の呑み屋を始めることを相談し、同年一二月初めころ、小林が二〇〇万円を出資し、それを胴元役の佐藤が預かり、被告人は連絡役となることが決つたものの、右約束とは逆に、佐藤は、呑み屋をやるどころか自ら競輪で一儲けしようとして、被告人に競輪の車券を買いに行かせるなどしてその金を勝手に費消し、翌四七年二月初めころには資金を六〇万円程に減らしてしまつた。このことを知つて憤慨した小林は、佐藤及び被告人に対し、「このままでは担保に入れている土地も家も取られてしまう、早く金を作つて返してくれ。」などと連日要求し、更に、金が出来なければ家に保険を掛けるから火をつけてくれとか、息子龍雄を多額の保険を掛けた自動車で轢き殺してくれなどと無理難題を吹つ掛けた。佐藤と被告人はこれに全く困窮したあげく、同月一三日、まず佐藤から被告人に対し、「野郎をやつちやえば、うるさく金のことを言われなくてすむからやつちやおう。」などと小林を殺害し金員の返還要求などされないようにしてしまおうともちかけ、被告人も、小林が自分の娘におかしな真似をしたことを聞いていたこともあつて、小林殺害を決意し、ここに被告人は、佐藤と共謀のうえ小林を殺害し、右金員の支払いを免れようと企て、同日夜、小林隆雄(当時四五歳)に対し、虚構の融資話をもちかけて、同人を被告人運転の乗用車に同乗させて埼玉県大里郡川本村大字長在家字南台二九四五番地先路上におびき出し、同日午後九時三〇分ころ、同所において、小用するふりをした被告人と並んで小用中の小林の背後から、佐藤がやにわに所携の金槌をもつてその頭部を数回殴打し、よつて即時同所において右小林を大脳髄質挫傷により死亡させて殺害し、もつて、前記二〇〇万円中百数十万円の金員の支払いを佐藤に免れさせて、同金員相当額の財産上不法の利益を得させた

第二  被告人は、判示第一記載のとおり、佐藤朝三と共謀のうえ小林隆雄を殺害したが、その後昭和四七年夏、佐藤と共に盆栽泥棒を犯したところ被告人のみ逮捕され、佐藤の頼みで被告人一人が罪をかぶり裁判を受けたものの、佐藤は保釈保証金や娘の入学金などを出すとの約束に反して金銭的に何の面倒も見てくれないばかりか、不動産売買の仲介からも被告人を仲間外れにするなど冷淡になつてきたことから、小林殺しを他に言いふらされるのではないかと不安を感じるようになり、佐藤を殺害して禍根を絶とうと考え、その機会を窺ううち、同四八年七月二一日、自転車に乗り同県熊谷市大字新堀一〇一五番地の三所在の佐藤朝三(当時五三歳)方を訪れたところ、おりから買物から帰宅した同人と同人方玄関付近で出会い、二階に上がるように声を掛けられるや、この機会に同人を殺害しようと決意し、同家一階にあつたダルマジャッキ(重量約六キログラム)を手にして二階に上り、二階西側六畳間においてうしろ向きにあぐらをかいて買物袋から品物を取り出していた同人の背後に迫り、右ダルマジャッキで同人の頭頂部目掛けて一回強打し、更に、仰向けに転倒した同人の頭部・顔面を数回強打し、よつて即時同所において同人を頭部粉砕骨折に伴う脳挫傷により死亡させて殺害した

第三  被告人は、

一  昭和四六年三月ころ、田島不二夫が自宅の土地の半分を売却するという話を聞きその仲介をしたうえ、同人と一緒に酒を飲んだり魚釣りをするなどし、更には、前記小林の土地売却に際し詐欺まがいの悪事を共にするなど深い交友関係を継続し、同四八年一月には、田島の土地の残り半分を売却してやつたが、同人が埼玉銀行熊谷西支店に多額の預金をしていることを知り、何時か同人を殺害してその預金通帳を奪おうと考えていたところ、同四九年二月二二日、同市大字新堀一二一八番地の同人方に遊びに行つた際、たまたま同人から「熊谷の銀行へ金を下ろしに行きたいので、車に同乗させて貰いたい。」との依頼を受けるや、同人を、他所に連行して殺害し、右預金通帳等を強取しようと企て、「帰りに魚釣りに行こう。」などと申し向けて言葉巧みに同人を埼玉県大里郡川本村大字田中三五九番地の二先荒川河川敷に誘い出したのち、同日午後五時ころ、同所において、魚釣りに熱中している同人(当時三二歳)の頭部を、やにわに、同所付近にあつた重量約七キログラムの石塊で一回殴打し、さらにその場に転倒した同人の前頭部を右石塊をもつて数回殴打するなどの暴行を加え、よつて、即時同所において同人を脳髄質挫傷により死亡させて殺害したうえ、同日午後七時ころ、同市大字御稜威ケ原五九九番地先防風林脇路上において、同所に駐車した普通乗用自動車内の同人の死体から同人所有にかかる預金残高三一三万二四一〇円の普通預金通帳一冊及び同人名義の印鑑一個を奪い取つてこれらを強取した

二  同日午後九時ころ、同市大字三ケ尻三二三番地の一先の砂利採取場跡地において、右田島の死体を土中に埋め込み、もつて死体を遺棄した

第四  被告人は、長谷部金藏、高橋すみ子及び佐藤朝三と共謀のうえ、高橋が小川清(当時三九歳)に誘いをかけて同人と肉体関係を結び、これを種に同人から金員を喝取しようと企て、高橋において小川を誘惑して肉体関係を結んだうえ、昭和四六年三月一〇日ころの午前二時ころ、同市大字御稜威ケ原六四九番地所在の小川方において、同人に対し、高橋の亭主を装つた佐藤において、「今出張から帰つてきたらおつかあが泣いている。お前と関係したということだ。とんでもない野郎だ。どうしてくれるんだ。そんなことをしたんじや俺はおつかあと縁を切らなきやおさまらねえ。俺たちには子供が二人いるからお前たちにその子供二人をつけてやる。面倒をみろ。それとも出るところに出るか。おつかあと別れたら俺は一人になるんだから俺の食いぶちを保護してもらいたい。」などと怒号し、さらに数時間後にも、同所において、「謝つてすむもんじやねえ。」などと怒号したうえ、同所にあつた炊飯器を蹴り飛ばすなどして金員の交付方を要求し、もしその要求に応じなければ小川の身体や信用等にどのような危害を加えるかも知れない気勢を示して脅迫し、同人をしてその旨畏怖させ、よつて同月二七日ころ、同市大字御稜威ケ原字上林八二一番地所在の御稜威ケ原開拓農業共同組合事務所前において、同人から長谷部において現金二〇万円の交付を受けてこれを喝取した

第五  被告人は、

一  長谷部金藏と共謀のうえ、昭和四八年一〇月一日、同市本町一丁目一〇四番地太陽神戸銀行熊谷支店において、行使の目的をもつて、ほしいままに、同支店備付けの普通預金払戻請求書用紙一枚の金額欄に「190000」、年月日欄に「48、10、1」と記入したほか、そのお名前欄に「佐藤朝三」と冒書し、さらにその末尾に佐藤の小判型印を冒捺して同人作成名義の普通預金払戻請求書一通(昭和五五年押第三三三号の5)の偽造を遂げたうえ、即時同所において、同支店係員に対し、あたかもこれを真正に作成されたもののように装い、佐藤朝三名義の同支店発行の普通預金通帳と共に提出して行使し、預金の払戻しを求め、同係員らをしてその旨誤信させ、よつて、即時同所において、同支店係員から預金払戻名下に現金一九万円の交付を受けてこれを騙取した

二  同年一一月二四日、前同支店において、行使の目的をもつて、ほしいままに、同支店備付けの普通預金払戻請求書用紙一枚の金額欄に「10000」、年月日欄に「48、11、24」と記入したほか、そのお名前欄に「佐藤朝三」と冒書し、さらにその末尾に佐藤の小判型印を冒捺して同人作成名義の普通預金払戻請求書一通(前同押号の6)の偽造を遂げたうえ、即時同所において、同支店係員に対し、あたかもこれを真正に作成されたもののように装い、前記普通預金通帳と共に提出して行使し、預金の払戻しを求め、同係員らをしてその旨誤信させ、よつて、即時同所において、同支店係員から預金払戻名下に現金一万円の交付を受けてこれを騙取した

第六  被告人は、

一  昭和四九年二月二三日、同市石原三丁目二四一番地埼玉銀行熊谷西支店において、行使の目的をもつて、ほしいままに、同支店備付けの普通預金払戻請求書用紙一枚の金額欄に「1500000」、年月日欄に「49、2、23」と記入したほか、そのご署名欄に「田島不二夫」と冒書し、さらにその末尾に前記強取にかかる田島不二夫と刻した印鑑を冒捺して同人作成名義の普通預金払戻請求書一通(前同押号の24)の偽造を遂げたうえ、即時同所において、同支店係員に対し、あたかもこれを真正に作成されたもののように装い、先に強取した前記普通預金通帳と共に提出して行使し、預金の払戻しを求め、同係員らをしてその旨誤信させ、よつて、即時同所において、同支店係員から預金払戻名下に現金一五〇万円の交付を受けてこれを騙取した

二  同月二八日、前記埼玉銀行熊谷西支店において、行使の目的をもつて、ほしいままに、同支店備付けの普通預金払戻請求書用紙一枚の金額欄に「1500000」、年月日欄に「49、2、28」と記入したほか、そのご署名欄に「田島不二夫」と冒書し、さらにその末尾に前記田島不二夫と刻した印鑑を冒捺して同人作成名義の普通預金払戻請求書一通(前同押号の25)の偽造を遂げたうえ、即時同所において、同支店係員に対し、あたかもこれを真正に作成されたもののように装い、前記普通預金通帳と共に提出して行使し、預金の払戻しを求め、同係員らをしてその旨誤信させ、よつて、即時同所において、同支店係員から預金払戻名下に現金一五〇万円の交付を受けてこれを騙取した

三  同年三月二五日、前記埼玉銀行熊谷西支店において、行使の目的をもつて、ほしいままに、同支店備付けの普通預金払戻請求書用紙一枚の金額欄に「120000」、年月日欄に「49、3、25」と記入したほか、そのご署名欄に「田島不二夫」と冒書し、さらにその末尾に前記田島不二夫と刻した印鑑を冒捺して同人作成名義の普通預金払戻請求書一通(前同押号の26)の偽造を遂げたうえ、即時同所において、同支店係員に対し、あたかもこれを真正に作成されたもののように装い、前記普通預金通帳と共に提出して行使し、預金の払戻しを求め、同係員らをしてその旨誤信させ、よつて、即時同所において、同支店係員から預金払戻名下に現金一二万円の交付を受けてこれを騙取した

第七  杉田富藏が、川崎市所在の宗教法人寿福寺のために、群馬県富岡市内の山林を仲介し、その際、同寺の世話人熱方良助から、同寺への移転登記完了前に伐採する条件で、右山林内の立木数十本(時価数万円)を無償で譲り受ける口約束を得ていたところ、その後、同寺の世話人吉沢芳一と右熱方が右山林付近の山林二筆を別途同寺のために売買の斡旋をしたこと及び熱方が前記山林内の立木を登記済み後管理人高橋粂作をして伐採させたことを聞知するや、自己に無断で売買の斡旋をし、更に勝手に立木を伐採したと因縁をつけて熱方から金員を喝取することを企て、昭和四九年一一月二〇日ころ、神奈川県川崎市多摩区菅六六〇〇番地の熱方良助(当時五九歳)方に赴き、同人方庭先において、同人に対し、「俺は山の儲けの配分を取りに来たんだ。お前は立木の事だつて俺のものを高橋に切らせやがつてこの野郎、てめえがどうあろうと俺の方じや腕の片方取りあげてでも二〇〇や三〇〇はとつてやる。てめえらになめられてたまるか、東京の親分に話せば若い衆の一〇〇くらいはすぐ集まるからこんな店なんかがたくつてやる。」などと怒鳴りつけるなどして金員の交付方を要求し、もしこれに応じないときは同人の身体等にいかなる危害を加えるかも知れない気勢を示して脅迫し、同人をしてその旨畏怖させ、よつて同年一二月一四日、埼玉県熊谷市美土里町一丁目一五一番地一の杉田富藏方において、熱方から、現金一〇〇万円の交付を受けてこれを喝取したのであるが、被告人は、これより先同年一一月二〇日ころ、前記杉田方において、内山壮六と共に、杉田から「熱方のやつは俺に内緒で富岡の山の取引をして儲けを出そうとしないし、そのうえ立木を切らせてしまいやがつてその金も出そうとしないので、これから熱方のところへ行こうと思うが、やつは暴力団まがいのようなしぶとい男で一筋縄じやいかないから、脅しでもしなければ金は出さない、みんな一緒に行つてくれ。話がつけば小遣くらい出すから。」などとうちあけられ、これを了承し同日杉田らと前記熱方方に赴き、前記のとおり、杉田が熱方を脅迫し金員を要求するに際し、その情を知りながら、杉田に協力して同人及び内山と共に熱方を取り囲むようにして気勢を示すなどし、もつて杉田富藏の熱方に対する右恐喝の犯行を容易にしてこれを幇助した

第八  被告人は、田口英光の使用人が他人の畑から大根を盗むところを目撃し、これを種に金員を喝取しようと企て、長谷部金藏と共謀のうえ、被告人において、昭和五〇年四月三〇日ころから翌五月一日ころにかけて、二回にわたり、埼玉県熊谷市新堀四一七番地所在の三ケ尻電話局前公衆電話から同市大字拾六間七〇四番地の七所在の田口英光(当時三六歳)宅に電話をかけ、同人に対し、「人のところの畑から大根をとらなかつたか。大根をとつた写真がある。このことを新聞に出して表沙汰にされたら商売にさしつかえるだろう。明日俺のところの若衆をやるから考えておけ。」などと申し向け、さらに同年五月二日、右大根畑の所有者である同県深谷市大字上敷免四三六番地所在の栗田春次方付近路上において、田口に対し、長谷部において、「親方あんなことをしちやしようがねえじやねえか。これが新聞沙汰になつたら大変なことになるぞ。」と、また被告人において、「金をだせば写真を取り戻せるんだから、その写真を取り戻す事を考えろ。」などとこもごも申し向けて金員の交付方を要求し、もしその要求に応じなければ同人の信用及び名誉に如何なる危害を加えるかも知れない気勢を示して脅迫し、同人をしてその旨畏怖させ、同人から金員を喝取しようとしたが、同人が栗田の宥恕を得て右要求に応じなかつたためその目的を遂げなかつたものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(主な争点に対する判断)

一小林隆雄、佐藤朝三、田島不二夫の三人を殺害した事実(以下それぞれ「小林事件」「佐藤事件」「田島事件」と呼ぶ。)中、小林事件については、事実関係に特段の争いはないものの、佐藤事件と田島事件については、被告人が捜査段階及び公判段階の途中まで維持していた単独犯行を内容とする自白を翻し、共犯者が存在すること、犯行の場所も手段も異なるとの自白をするに至り、しかも、佐藤事件については死体や凶器等の物的証拠が存在しないという特異な事件であり、弁護人は、佐藤事件、田島事件についての被告人の従来の自白は種々の点から信用性がなく、佐藤事件については補強証拠もないとしていずれの事件も被告人は無罪である、また小林事件については被告人には殺人罪の従犯が成立するに過ぎないと主張しているので、まず初めにこれらの事件が発覚し、今日に至るまでの経過を概観する。

〈証拠〉によれば、右三事件について、被告人に容疑がかかり、公訴の提起がなされ、今日に至つた経過は、以下のとおりである。

1  昭和四七年三月一八日、熊谷警察署に対し、小林事件の被害者の妻小林ヨウから夫が同年二月一三日の夕方家を出たまま戻らない旨の捜索願いが提出された。

そこで、小林の身辺を捜査したところ、同人はギャンブルに熱中し、自己所有の土地建物だけでなく、養子の小林龍雄名義の土地も抵当に入れ、更にはこれを売却してしまつていることなどが判明し、大金を手にしていることなどから、小林は、金銭をめぐつて何者かに誘い出された疑いが強く持たれ、同人の交遊関係者として、杉田富藏、被告人、佐藤朝三、長谷部金藏、内山壮六、関輪晴男らの名前が浮上し、彼等の身辺捜査が行なわれた。

2  小林の失踪には種々の不審点があつたものの、殺人等を裏付ける証拠もないまま三年以上経過した昭和五一年一月、被告人らが恐喝事件等(判示第七の事実その他事件)を起こしていることが判明したので、同月二六日に杉田富藏及び長谷部金藏を、翌二七日に被告人及び内山壮六を逮捕し、恐喝事件等の捜査が終了したのち、小林の失踪について、被告人らの取調を開始した。裏付捜査の結果、杉田、長谷部、内山は小林の失踪とは無関係と判明し、被告人については疑いは残つたが、被告人は「小林は必ずどこかで生活している。」と頑強に弁解していた。佐藤、関輪は、事情聴取をしようとしたが行方不明であつた。そこで、捜査の重点は被告人の取調と佐藤、関輪の所在捜査におかれた。

その結果、被告人は、小林龍雄名義の土地を売却した詐欺事件を敢行していたことを自供し、龍雄の替玉として使つた人間が田島不二夫であることが判明し、ここに至つて、初めて田島の名前が浮上してきたが、被告人は、小林の失踪に関しては依然否認を続けていた。

3  小林龍雄名義の土地の売却について、田島から事情を聴取しようとしたところ、同人も、昭和四九年二月下旬から行方不明であることが判明した。そこで、同人の失踪について捜査したところ、失踪の翌日ころの同月二三日ころ、同人方の郵便受に、同人以外の者の筆跡で「不二夫より、妹へ」と書かれた五万円入りの封筒が投げ込まれていたり、何者かにより田島の銀行預金から、同月二三日以降三回にわたり合計三一二万円が引き出されており、しかもその払戻請求書の筆跡鑑定を行なつたところ、被告人の筆跡と酷似していたため、更に被告人を追及したところ、それらは被告人が書いたものであることは認めるに至つたものの、それは佐藤朝三に頼まれて書いたものであると供述した。

4  田島の失踪に佐藤が関係しているとの被告人の供述に基づき、佐藤について捜査を行なつたところ、同人は、田島が失踪する以前の、昭和四八年六月下旬ころから所在不明となつていることが判明した。すなわち、佐藤は、同年五月下旬と六月上旬に、知人である埼玉県深谷市の金融業者から合計約一四〇万円を借金し、同月一二日に、太陽神戸銀行熊谷支店に口座を作り七〇万円預金し、同月一六日、五〇万円を引き出し、そのころ派手にギャンブルをやつていたが、間もなくギャンブル仲間にも連絡がないまま失踪してしまい、同月下旬には、右金融業者から、更に融資を受ける予定になつていたが訪れなかつた。そして、佐藤の預金の引出しは、同月一六日以降同年一〇月一日、同年一一月二四日の三回あり、同年六月一六日引出しの払戻請求書の筆跡は佐藤本人のものであるが、あとの二回のものは一見して被告人の筆跡によるものであり、特に一一月二四日付の払戻請求書からは被告人の指紋が検出された。

5  このように、三名の失踪者をめぐつて捜査を遂げたところ、各種状況証拠から、被告人が三名を殺害した疑いが決定的となり、被告人の取調を強化し追及したところ、昭和五一年三月一七日に至り、佐藤と一緒になつて小林を殺害し、佐藤及び田島を被告人単独で殺害し、それぞれ死体を地中に埋め込み遺棄した旨の自白をするに至つた。

6  被告人の自供に基づき、同月一九日から、三名の死体遺棄場所三か所に対する発掘作業が開始されたが、同月末に至るも遺体発見に至らなかつたため、同年四月一日から、まず田島の遺体発見に絞つて作業を進めたところ、同月一三日、判示の死体遺棄現場から同人の遺体が発見された。すでに恐喝等の事件で公判中の被告人は田島事件で再逮捕され、同年五月四日、同事件について浦和地方裁判所熊谷支部に追起訴された。

田島の遺体が発見されたことから、同年四月一六日、埼玉県熊谷市大字三ケ尻字庚申一九二七番地等の付近一帯において、佐藤の遺体発掘作業が再開された。連日のように作業が進められ、被告人が遺体を埋めたと供述する地点付近を東西に約一〇二メートル、南北に約二六・三メートルないし三三メートル、深さ約八・六メートルないし一三・五メートルの範囲にわたつて大掛りな発掘が行なわれたが、同年六月七日に至るも、ついに佐藤の遺体を発見するに至らず、作業を中止した(司法警察員作成の昭和五一年七月五日付検証調書)。

同年九月九日、同市大字広瀬字尾根越一一一〇番地の三付近において、小林の遺体発掘作業が再開され、同年一〇月五日、同所から同人の遺体が発見された。被告人は同年一二月一三日、小林事件についても前記支部に追起訴された。

7  被告人は、公判廷において、恐喝幇助(判示第七の罪、昭和五一年二月一二日起訴)、恐喝未遂(判示第八の罪、同月二四日起訴)、恐喝(判示第四の罪、同年三月一九日起訴)、田島事件、小林事件のいずれについても争わず、順調に審理が進められ、第九回(同五二年九月二七日)及び第一〇回(同五三年二月一四日)の各公判期日に施行された被告人質問においても、捜査段階における自白内容とほぼ同一の供述を繰り返した。

同支部は、右第一〇回公判期日において、弁護側の鑑定申請を採用し、被告人の精神鑑定を行なうこととしたため、その後審理が中断されていたが、検察官は、佐藤事件について、同五五年五月ころから、補充捜査を行ない、若干の新たな証拠を得て、佐藤の死体や犯行に使用した凶器等物証がないまま、同年八月二五日、同事件を当裁判所に起訴した。

被告人は、佐藤事件についても、公判廷において、単独犯行の起訴事実を全面的に認めていた。当裁判所は、同五七年一月二一日、熊谷支部に係属していた小林事件、田島事件等を併合審理することとし、同年三月一一日には、佐藤事件を中心として現場検証を行なつたが、その際、当初から被告人が佐藤殺害現場であると主張していた元佐藤朝三宅においてなされた被告人質問においても、被告人は、佐藤の殺害状況などについて捜査段階におけると同様の供述をしていた。

8  ところが、同年四月八日以降、被告人は、弁護人に対し、右三事件について、詳細な内容の手紙(昭和五五年押第三三三号の110ないし124)を送付し、その内容は、小林事件については従前の供述とほぼ同旨であるものの、田島事件及び佐藤事件については、共犯者が存在し、主犯はむしろそちらの方である、犯行場所、殺害方法も異なるというものであつた。そして、今日に至るまで、田島事件、佐藤事件の真相は、右手紙に記述したとおりであると供述している。

二小林事件について

弁護人は、被告人は小林隆雄に対して金二〇〇万円を返済する義務を負つていないし、共犯者である佐藤朝三の小林に対する金二〇〇万円の返済債務を保証していたわけでもなく、また、佐藤が小林に債務を負つていることは知らなかつた以上、その債務を免れさせようという意思もなかつたから、被告人には強盗殺人罪の共犯は成立せず、殺人罪が成立するに過ぎず、しかもそれは従犯であると主張する。

1  前掲各証拠によれば、佐藤朝三、小林隆雄及び被告人の三名は、昭和四六年一二月初めころから、小林が出資した二〇〇万円を元手に、競輪の呑み屋をやろうと計画したが、その金を預かつた佐藤において、直ぐには呑み屋をやらずに、かえつて小林に無断で車券を買い、結局損をして、同四七年二月初めころには預かり金を六〇万円程に減らしてしまい、そのころ、そのことを小林に知られ、同人からしつこく金の返済を迫られ、挙句の果てには小林の養子の龍雄を保険の掛かつた自動車で轢いてくれなどと無理難題を言われたりしたため、佐藤から被告人に小林殺害をもちかけ、本件犯行に及んだものであることが明らかである。

ところで、被告人の司法警察員に対する昭和五一年一二月九日付供述調書等によれば、小林が佐藤に二〇〇万円を預けた趣旨は、呑み屋をやるについて、小林が自分で右金員を所持していると、金銭にルーズなため、すぐに競輪などで費消してしまう虞れがあるのに反し、佐藤は、普段の金の出し入れが几帳面であるから、同人に預けておけば大丈夫であろうと期待してのことであると認められる。この点、被告人は、佐藤が預かつた金を使つて、競輪の車券を買つていたことを小林自身知つていたというようなことも述べるに至つているが、仮に、そうであつたとしても、金員委託の趣旨に鑑みれば事前に小林が佐藤の費消行為を容認していたものとは解されないので、それをもつて、小林の許諾を得て預かり金を費消したということにはならない。

競輪の呑み屋をやるための金銭の出捐は、違法行為を目的とするものであつて、いわゆる不法原因給付物として裁判上の返還請求が直ちに認容される性質のものではないが、刑法二三六条二項にいう「利益」は、民事法上正当に返還請求が出来るものに限らず、当事者が任意に交付すれば、やはり債務の返済に該当するような性質のものでもその対象になるものと解される。小林としては、一旦佐藤に右金員を預けたとしても、民事法上その返還を訴求できるかどうかは別論としても、いつでもその金員の返還を請求し、呑み行為の中止を請求することが出来ることは当然である。現に小林は佐藤らにその返還を厳しく迫つているのであるから、本件における金二〇〇万円は、その返還を免れたならば、刑法二三六条二項に定める「利益」に該当することは否定出来ない。

したがつて、佐藤が、右金員の返還要求を断とうとして小林を殺害した行為は、強盗殺人罪に該当することは明らかである。

2  ところで、被告人は、佐藤とは異なり、小林に対し、いかなる意味でも債務を負つているわけではないが、二項強盗罪は、自己に直接利益を得ようとする場合に限らず、他人に利益を得させる目的であつても成立する。したがつて、被告人が、佐藤に右金員の返還を不要ならしめようとの意思で小林殺害に荷担すれば、強盗殺人罪の共犯になることは当然である。

そこで、被告人に強盗の共謀が認められるか否かであるが、被告人の捜査段階から今日に至るまで、ほぼ一貫している供述によれば、被告人は、小林殺害を実行する以前から、佐藤が小林から呑み行為をやるという趣旨で金二〇〇万円を預かり、それをほしいままに費消してしまい、そのことを小林から責められていたことを知つていたこと、及び、その返還要求が余りに厳しいことから、佐藤から、小林殺害をもちかけられ、佐藤が右金員を返還しなくてもすむようになることを知りながら、同人の小林殺害行為に荷担したことは明らかである。したがつて、被告人が強盗殺人罪の共犯となることは当然である。

3  また、弁護人は、被告人の行為は、共同正犯ではなく従犯に該当すると主張するけれども、被告人のほぼ一貫した供述によれば、被告人は、小林殺害の当日、佐藤との間で、小林殺害の相談をし、同人を自分の乗用車で小林方まで迎えに行き、金を貸してくれる先が見付かつた旨虚構の事実を申し向けて佐藤方まで連れてきて、更に、これから融資先に行こうと小林を誘い、被告人運転の乗用車で佐藤と共に犯行現場に連れ出し、適当な場所で小林と並んで立ち、小用をするふりをして佐藤が小林を殴打しやすい状況を作り、佐藤において、用意しておいた金槌で小林を撲殺したものであることが認められるが、このように、殺害行為そのものは行なつていなくとも、事前に共犯者と相談の上、被害者を欺罔して殺害現場まで連れ出し、殺害しやすい状況を作出するなど重要な関与行為を行なつている以上、従犯ではなく共同正犯に該当するのは当然というべきである。

結局弁護人の主張は採用できない。

4  なお、検察官の主張は、二〇〇万円相当の金員の支払を免れたというものであるが、被告人の司法警察員に対する昭和五一年一二月九日付及び同月一三日付各供述調書等によれば、小林自身、右金員の中から一六万円を費消していること、佐藤が小林に対し数十万円を利益として交付したことが窺われるから、少なくともそれだけの金額については、返還義務、したがつて利益の範囲から除外すべきものであるから、判示のように百数十万円相当の支払を免れたものと認定した(被告人は、第一〇回公判等において、小林が自分で費消した金員は三〇万円であると述べているが、金額に関する被告人の最近の記憶は、例えば、田島事件で被告人が引き出した金額―預金払戻請求書などから一五〇万円が二回に、一二万円が一回と断定できる(判示第六)―について、被告人の弁護人に対する手紙(田島事件についての二八頁及び三三頁)には、一八〇万円と一二〇万円であるなどと記載されていて、記憶違いがあり、にわかに措信することは出来ない。)。

三佐藤事件について

本事件については、田島事件と同様のパターンで自白に変遷があり、更に、佐藤の死体も未発見であることから、自白の信用性と補強証拠について争いがあるので、以下検討する。

1  まず、被告人が、佐藤殺害状況等について、これまでどのような内容の自白をしてきているかを古いものから順に並べて見ると概ね以下のようになる。

① 昭和五一年三月一七日付上申書

(佐藤に関するもの)及び司法警察員に対する供述調書謄本

「昭和四八年六月下旬頃の午後九時ころ、佐藤の金が欲しくて、当時佐藤が居住していた熊谷市新堀所在の長谷部金藏の事務所二階において、新聞かテレビを見ていた佐藤のうしろから麻縄で絞め殺し、秩父野上町の山奥の木の根を堀つた跡に死体を埋めた。」

② 昭和五一年三月一八日付上申書

(佐藤に関するもの)及び司法警察員に対する供述調書謄本

被告人は、同日午前中、留置場内で自殺を図つたが果せず、同日付上申書において、「昨日述べた死体の遺棄場所は(三件とも)嘘である。自殺してしまえば自分が楽になるし、家族にも迷惑が掛らないと思い自殺を図つた。しかし、死んで精算がつくものでもないから、佐藤(小林、田島)を埋めた場所の見取図を書く。その場所は熊谷市三ケ尻分の田んぼの中の砂利採取跡の埋立て地である。」旨述べ、同日付司法警察具に対する供述調書謄本において、「殺害の日時・場所は昨日述べたとおり。佐藤の金が欲しいことと佐藤に対する憎しみから、田島不二夫を階下で見張りに使い、麻縄で佐藤の首を絞め、それでもまだピクピク動いているので、さらに紙袋を佐藤の頭に被せ、階下からダルマジャッキを持つて来て、ジャッキの頭の方で佐藤の頭頂付近を三、四回殴りつけて殺害し、死体を一時六畳間の押入に隠し、長谷部所有の車検切れの車で田島と共に佐藤の死体を運び、三ケ尻地内の砂利採取場跡に埋めた。」と田島不二夫が現場にいたことを述べ、また殺害方法、死体遺棄場所についての供述を変えた。

③ 昭和五一年四月二六日、二七日付司法警察員に対する各供述調書

「被告人は、昭和四七年八月ころ、佐藤と一緒になつて盆栽泥棒などをやり、被告人のみ逮捕されたが、佐藤から、弁護士の費用や保釈金は出すから、被告人が一人でやつたことにして欲しい旨言われ、自分一人の犯行ということにして裁判を受けたのに、佐藤は金銭的に何の面倒も見てくれず約束を守つてくれないこと、不動産売買の仲介にも被告人を仲間外れにするなど佐藤の被告人に対する態度が冷たくなつて来たこと、被告人には金を渡さないのに派手にギャンブルをやつていたこと、被告人に対し、被告人が長年世話になつていた長谷部金藏の土地権利書を盗み出すように言つて来たこと、被告人は佐藤と共に小林隆雄を殺害しているが、それを種に佐藤から脅かされるのではないかと危惧したことから、佐藤に対し憎しみを抱いていたが、同四八年六月下旬ころの午後三時ころ、田島不二夫から電話があり、熊谷市新堀の同人方に遊びに行つたところ、同人から、佐藤が田島に五〇万円貸せとか、被告人に早く長谷部の権利書を持つて来いと言えと言つていた旨聞かされ、佐藤を殺害しようと決意し、自転車に乗つて佐藤の住居に赴き、同日午後五時頃、買物から帰つて来て二階に上がつた同人のあとから階下にあつたダルマジャッキを持つてついて行き、自室で買物袋から品物を取り出していた同人の頭頂部を、ダルマジャッキで一回殴打し、更に、倒れた同人の前頭部や額の付近を二、三回殴打した。殴つたところから血がしみだすように流れ出したが、付近に飛び散るほどではなかつた。佐藤が仰向けに倒れたところは、佐藤が桑の木を加工するとき畳を傷つけないようにするため紙袋を破いて広げて敷いてあつたので、畳に血はつかなかつた。それから急いで階下へ行き、ビニール袋と麻紐一本を持つて来て、頭の上からビニール袋を被せ、首のところで麻紐を巻きつけ縛つた。風呂場へ行つて少し休み、水を飲んだり手を洗つたりしてから、玄関のガラス戸が割れていたので、ベニヤ板をそこへ打ちつけた。内鍵をかけて二階へ戻り、佐藤の背広のポケットを探り現金四万三五〇〇円くらいを盗つた。そして、死体を二階六畳間西側の下の押入に隠した 死体の処理には、当時、車を売払い持つていなかつたので、熊谷市美土里町の駐在所の筋向いの空地に放置してある長谷部所有の車検が切れた普通乗用自動車(コロナ)を使うことにし、風呂場の窓から外へ出て、自転車で右空地へ向かつた。エンジンをかけようとしたが、バッテリーがなくなつていたので、その自動車の工具でバッテリーを取り外して自衛隊前にある出光ガソリンスタンドに待つて行き、急速で充電して貰い、一時間くらいしてバッテリーを持つて来て取り付け、エンジンがかかつたのが同日午後七時過ぎころだつた。暗くなるまでそこで待ち、佐藤方まで運転してきて、佐藤の死体を二階から下ろし、トランクに入れて、三ケ尻の砂利採取跡まで運び埋めた……」と自白内容が詳細になり、②の自白と比べ、殺害時刻、殺害方法を変え、田島が現れた場面についての供述を落し、以後作成された上申書、捜査官に対する供述調書及び公判廷の供述においても、バッテリー充電の代金は現金で支払つた旨付加する他、右の内容とほぼ同趣旨の供述を続けていた。

④ 昭和五五年七月一七日付検察官に対する供述調書

「殺害に至る経緯、殺害情況は右③とほぼ同旨。佐藤の死体を押入に隠した後に田島不二夫が自転車でやつてきたので、同人に佐藤を殺害した旨打ち開けた。バッテリーの充電には一人で行つたが、右③のように佐藤の死体を車のトランクに入れる際には、田島を見張りに使つた。また、死体遺棄現場にも田島が同行し、見張りをしていた。」と②の自白に近いような供述をし、以後作成された検察官に対する供述調書及び昭和五七年三月一一日実施の当裁判所の検証の際の被告人質問においても同様の供述をしていた。

⑤ 昭和五七年四月以降今日に至るまでの新供述

「長谷部金藏は、佐藤朝三と共に係争家屋に関する領収書の偽造や恐喝(判示第四)を行ない、そのことを他人に言い触らされるのではないかと同人を恐れていたが、昭和四六年一二月ころ、被告人に対し、佐藤殺害の意思がある旨打ち明け、翌四七年一二月ころにも、佐藤を使つて他人の土地を売り飛ばす詐欺を行なつて一儲けしてから佐藤を殺害しようと持ち掛けてきたが、詐欺事件がうまくいかなくなつたため佐藤殺害は取止めとなつた。被告人は、同四八年六月下旬ころ、田島方で、同人から、佐藤が『五〇万円貨せ。』とか『長谷部の車のトランクの中にある鞄から権利証と印鑑を高田に盗み出すように話せ、いやならこつちにも考えがある。』などと言つている旨聞かされ、その夜、長谷部に電話し、田島から聞いたことを告げると、長谷部が車で被告人を迎えに来て、熊谷市大麻生地内の荒川堤防まで連れて行かれ、車内で、長谷部から『もう一日も放つておけない……』と佐藤殺害の意図を告げられ、同日午後八時か九時ころ、二人で田島方に赴き、田島を加えた三人で、籠原小学校の西方のゴルフ練習場付近の人通りの少ないところへ行き、そこで佐藤を殺害する相談をした。翌日の午前中、被告人と長谷部は、長谷部の白つぽいサニーに乗り、深谷市原郷のやぎや不動産裏の空地に行き、そこに放置されていた長谷部のトヨペットコロナハードトップ(屋根が黒レザー張)のバッテリーを、コードで接続してエンジンを掛け、二人で一台ずつ運転し、コロナを熊谷市美土里町の美土里公園のそばの空地に置いた。更にその翌日の午後六時ころ、長谷部が被告人方に来て、二人で直ぐに田島方に行き、田島を乗せ、三人で美土里公園のそばの空地に置いたコロナのところに赴き、そこで、長谷部からつるはしの柄、長さ約九〇センチメートル、直径約四センチメートルの鉄パイプ、石工用ハンマー、刃渡り約四〇センチメートルの脇差を見せられ、被告人はつるはしの柄、田島は脇差を渡され、その場で佐藤殺しの相談をした。その後三人で三ケ尻の大沢コンクリート工場の東方にある砂利採取跡の穴を下見に行つた。再び美土里公園そばの空地に戻つてから、長谷部は細かい段取りを説明し、被告人と長谷部がそれぞれ車を運転し、田島は長谷部運転の車に乗り、佐藤方へ向かつた。田島がまず佐藤方へ入り、同人方に他の人がいないのを確かめた後、長谷部が赴き、佐藤に金儲けの話をして連れ出す準備をした。田島が先に出て来たので、被告人と田島は、午後七時四〇分ころ、打合せ通り、熊谷市東別府入川の元川田とめが住んでいた空家に行き、乗つて来たサニーを庭の中に隠し、長谷部から渡された武器を持ち、門の外に放置されてあつた白い車の中で、長谷部が車をわざとパンクさせ、佐藤を騙して連れて来るのを待つた。しばらくして、長谷部と佐藤が乗つたコロナが到着し、被告人らが隠れている車のそばに駐車し、パンクしたタイヤの交換を始めた。そして、午後八時三〇分ころ、長谷部が高笑いするのを合図に、被告人と田島は、車から出て佐藤の背後に迫つたところ、長谷部が佐藤の脳天をハンマーで一撃したので、更に田島が脇差を喉の辺りに突きつけようとしたが、長谷部が止め、被告人は、佐藤の頭にビニール袋を被せ、長谷部が首に麻紐を巻いて絞めつけた。佐藤の死体をコロナのトランクに入れ、被告人と田島がサニーに乗り先導し、長谷部がコロナで後から走り、交通の一斉取締りに注意しながら進み、三ケ尻の大沢コンクリート工場のそばの砂利穴に行き、午後九時ころ、佐藤の死体を埋め終えた。その後三人は佐藤方へ戻り、佐藤がいつもやつていた競輪や競馬の出目表などを佐藤のバッグとビニール袋に詰め、別府沼に行き、投げ捨てた。そして、犯行場所に戻り、前の空地で、被告人と長谷部は着替え、田島は汚れていないからと言つて着替えなかつた。長谷部はコロナをその空地に置き、被告人と田島をサニーで自宅まで送つた。翌朝早く、長谷部と被告人は、長谷部の車で犯行場所に行き、昨夜着ていたジャンパーなどの衣類や長靴などを石油をかけて燃した。」旨共犯者として長谷部、田島の名前を出し、殺害場所が元川田とめ方、殺害方法についてハンマー(金槌)による殴打などとし、従来の自白と全く異なる内容に変つている。

被告人が、なぜ六年間もの間「虚偽」の自白を維持し、「真実」を話さなかつたかという理由については、恩義のある親方の長谷部を庇う一心からであつたと供述し、今回「真実」を話す気になつたのは、弁護人や裁判官に対し申訳ないという気持からであると述べている。

2  次に、自白以外の関係証拠から、認定できる事実は以下のとおりである。

① 佐藤朝三が、昭和四八年六月一六日には生存していたこと、しかし、そのころから今日まで親族やギャンブル仲間に対し何らの音信もなく、その姿を見た者はいないこと(〈証拠〉以下の②ないし⑥も同じ)

② 被告人が、熊谷市美土里町二丁目三一番地所在の埼玉石油輸送株式会社出光興産販売美土里町給油所(以下「出光ガソリンスタンド」という。)に、昭和四七、八年ころ、自転車でバッテリーを持ち込んで急速充電の依頼をして、代金を現金で支払つていつたことが一回あること

③ 昭和四八年六、七月中の右ガソリンスタンドにおける現金による充電は同年七月二一日以外に存在しないこと

④ 被告人が、新供述で佐藤事件の共犯者であるとしている田島不二夫は、昭和四八年六月二一日から同年八月四日まで、熊谷市美土里町三丁目一六三番地所在の籠原病院に胆のう炎で入院しており、同年七月五日には、全身麻酔を必要とする大手術をしていたこと

⑤ 被告人が、1の②、③、④の自白において、佐藤殺害後一時死体を隠したとしている元佐藤朝三方の二階六畳間の押入の中から、昭和五五年五月二七日現在において、九か所にわたり、直径一ミリメートルないし四ミリメートルの大きさの血液反応が出たこと

⑥ 元佐藤朝三方には、当時赤い色のダルマジャッキが存在したこと

3  本件では、先にみたように、客観的証拠がほとんどないため、1の①ないし⑤の自白のうち、いずれが真実で、いずれが虚偽であるかを判断することが非常に困難であるが、当裁判所としては、前記各自白のうち、③の自白が、虚偽の部分はあるにしても、大筋において真実と判断したので、以下その理由を説明する。

(一) まず、①の自白であるが、前記のとおり、被告人は、昭和五一年三月一七日に、初めて三人殺しを自白するに至つたが、これらの自白については、被告人自身が翌日には三件いずれについても本当のことが言いづらく、自分が自殺してしまえば死体も出ないだろうと考え虚偽の自白をしたと述べており、後記のとおり、田島事件についての三月一七日の自白は虚偽であつたこと、また、小林事件についての同日の自白は、被告人が単独で元佐藤朝三方においてベルトで小林の首を絞めて殺害し、死体は御稜威ケ原のごみ埋立て地に遺棄したというものであつて、やはり、共犯者の有無、殺害場所、方法、死体遺棄場所において虚偽であつたことからして、①の自白は、佐藤事件についても信用性が低いと言わざるをえない。

(二) 次に、新供述の⑤の自白の信用性について検討する。

検察官は、論告において、被告人が⑤の自白で共犯者としている田島は、その殺害時期とされている昭和四八年六月下旬から七月上旬には入院中であつたから、田島が共犯ということはありえないと主張しているが、被告人の殺害時期についての供述は、後述のとおり必ずしも正確なものとはいえず、その中には、佐藤生存の最後の痕跡をとどめる日である同年六月一六日から、田島共犯が成り立ちうる同月二〇日までを含んでいるものと解する余地もある。したがつて、殺害日の点からだけで⑤の自白を虚偽と断定することは出来ない。

そこで、その他の点から⑤の自白の信用性について検討するが、被告人は、親方である長谷部を庇つて六年もの間虚偽の自白を維持していたと弁解するところ、第一三回公判調書中の被告人の供述部分、被告人の検察官に対する昭和五五年四月二六日付、同年五月三一日付各供述調書によれば、被告人は、遅くとも昭和五三年ころには長谷部が死亡したことを知つていたこと、検察官から、長谷部と一緒に佐藤を殺したのではないかと何度か質問されても「違う。」と言い続けてきていたこと、その際、死刑に処せられることも覚悟しているとまで述べていることが認められ、そして第一回公判から同五七年三月一一日の期日外の被告人質問まで長谷部との共同犯行を否定して、自己の単独犯行である旨の供述を維持していたことは記録上明らかである。しかも、被告人の弁解によれば、それほどまでに長谷部を庇うつもりであつたのに、長谷部と共謀して佐藤の預金通帳から一九万円を引出した私文書偽造、同行使、詐欺事犯(判示第五の一)については、昭和五一年四月二七日に既に自白してしまつている。

また、検察官に対する昭和五五年五月三一日付供述調書では、長谷部が自殺したことは聞いているので、長谷部に佐藤殺しを押し付けることもできるが、それでは長谷部が死んでから罪を被せたと言われ耐えられないと述べておきながら、同五七年三月の当裁判所の検証に立会つたのち突然心境が変化し、これ以上虚偽を続けるのは弁護人や裁判所に申訳ないとの理由で従前の自白を翻し、⑤の自白をするに至つたが、命を掛けてまで隠そうとしていた長谷部の関与否定をあつさり覆す理由としては必ずしも説得力のあるものではない。前述のように被告人が長谷部の自殺を知つた同五三年ころには、既に被告人は田島事件、小林事件等の審理を浦和地裁熊谷支部において受けており、当然の事ながら弁護人も選任され、弁護活動を行なつていたわけである。しかもそれから二年後の同五五年には再び佐藤事件について検察官の取調を受け、同事件についての長谷部の関与の有無について念を押されているにもかかわらず従前の自白を維持した。被告人の弁解によれば、長谷部との間でどちらかが責任を負い、負いきれなくなれば自殺するとの約束がかわされていたとのことであるが、そうであるならば長谷部の自殺を知つた以降においては、被告人は自己の佐藤事件への関与を全面的に否定し、長谷部に責任を転嫁するのが筋と考えられるが、現実には従前の自白を翻すことなく同五七年に至つている(右約束の存在については疑問の余地が多い。後記田島事件参照。)。この様な経過から考えると、長谷部を庇つて虚偽の自白をしたとの被告人の弁解は到底措信できるものではない。庇うべき長谷部が既に死亡していることを知りながら敢えて行なつた単独犯行である旨の被告人の自白は、佐藤事件が重大事件で、被告人は極刑をも覚悟の上でした供述であることから考えると、それ自体において信用性の高いものと解される。したがつて、④以前の自白は長谷部を庇うためになした作り事であり全く虚偽である旨の被告人の当公判廷における弁解は、単なる自己の刑責を軽からしめるためのものであつて、全くその信用性を欠くものというべきである。しかも、同じパターンで自白を変えた田島事件についても、被告人は同様の理由で新供述をするに至つたが、右新供述が虚偽であることは後に述べるとおりである。したがつて、被告人が⑤の自白をするに至つた動機は、不自然、不合理であつて俄に首肯し難いことは明らかである。

更に、⑤の自白内容は、田島事件の⑤の自白と同様、自己が佐藤(田島)の殺害に関与していることは認めているが、いずれも共犯者とする長谷部が主導的な役割を果し、自己は従属的に行動したに過ぎないとの自己に有利な内容となつているのであつて、このような共犯者に責任の大半を転嫁するような自白の変遷は一般的に信用性が低いことも否定できない。共犯者とされている長谷部は、田島事件で後述するように「人殺しだけはしてない。」との遺書を残して自殺しており、田島事件において判示するように長谷部は被告人との間の約束を果して自殺したとの被告人の供述と矛盾することも被告人の新供述の自白が疑わしいことの理由の一つになろう。

また⑤の自白内容を裏付ける証拠が全く存しないことも、その自白の信用性が低いことを示すものである。

以上のように、被告人の⑤の自白は、その自白をするに至つた経緯に疑問があること、同時期になされた田島事件についての新自白が虚偽であること、内容も自己の刑責を軽減する方向のものであるところ、それを裏付ける客観的証拠が全く存しないこと、長谷部は前記の遺書を残して自殺していることなどに照らし到底信用することは出来ない。

(三) 次に、②③④の自白の信用性について検討する。

(1) ②③④の自白(これらの自白を「旧供述」と総称する。)は、相互間において、殺害の時刻、殺害の手段及び田島の関係する部分についての供述等に若干の相違がみられるが、これら旧供述の骨子は、要するに、当時佐藤が居住していた熊谷市新堀所在の長谷部金藏の事務所の二階(元佐藤朝三方)において、階下から持つてきたダルマジャッキで佐藤の頭頂部等を殴打して殺害し、一旦死体を二階六畳間の押入に隠したうえ、長谷部所有の車検切れの車で佐藤の死体を運び、三ケ尻地内の砂利採取場跡地に埋めたというのである。そして②の自白は簡単に概略を供述したものであるためかその自白には欠落しているが、③、④の自白において一貫して供述しているところの、佐藤の死体を遺棄するのに、長谷部所有の車検切れの自動車を利用しようとしたが、バッテリーが切れていたので、取り外して自衛隊前にある出光ガソリンスタンドに持つて行き、急速で充電してもらつたとの点に関しては、前記2の客観的事実のうち②、③の各事実が認められるので、これによつて旧供述の右供述部分が確実に裏付けられているといえるか否かまず検討する。

証人幸要の前記各供述部分及び同人の検察官に対する各供述調書によれば、バッテリーを車から取り外して充電依頼に持つて来る客は少なく、同証人が出光ガソリンスタンドに勤務していた昭和四六年五月から同四九年五月までの間に、その様な方法で充電依頼に来た客は、被告人を含めて三、四人くらいしかいなかつたこと、珍しいことなので被告人が来たことを記憶していたこと、被告人が充電に来たのは一回であること、通常は店の方から客の車まで出掛けて行つて動かせる程度に充電したうえ店まで車を動かし、そのうえで充電することがそれぞれ認められる。ところで、被告人は、現段階の新供述においては、犯行当日に出光ガソリンスタンドヘバッテリー充電に行つたことはなく、ただその時とは別の機会にバッテリーを右ガソリンスタンドに持参して充電を依頼したことがあると供述しているが(第二二回公判調書)、その「別の機会」の充電に行つた時の状況、なぜバッテリーを取り外して持つて行くという珍しい方法をとつたかの理由について何ら述べていない。もし特段の事情がなければ、わざわざ手間ひまかけてバッテリーを取り外すのではなく、通常の方法で行なう筈であろう。しかるに被告人がそうしていないというのは、自動車のところに他の人が来て貰つては都合が悪いというような特段の事情があつたことを推認させる。本件のように死体運搬の為に車検切れの車を動かそうとすることは、まさにその場合に当たる。また、そもそも被告人の右公判廷の新供述は、既に幸証言などを聴いたのちにしたものであつて、その証言と辻褄を合わせただけのものではないかとの疑いがあり、信用性の低いものであることは否定できない。

してみると、被告人のバッテリー充電依頼の方法が特異なものであること、他の機会に充電したとの弁解に何ら具体性がなく、またその弁解をするに至つた事情などに照すと、被告人が、犯行当日ではなく、別の日にバッテリーを出光ガソリンスタンドに持ち込んで充電依頼をしたとの被告人の弁解は措信し難いものであつて、旧供述中佐藤の死体運搬に使う長谷部所有の車検切れ自動車のバッテリーが切れていたので、取り外して自衛隊前にある出光ガソリンスタンドに持参して急速で充電してもらつたとの点については他の証拠により裏付けられているといえる。

(2) そうすると、旧供述中、田島の関与、犯行時期、時刻についての供述が右充電依頼の供述と矛盾ないしは抵触することとなるので、以下順次その点について検討を加える。

イ 田島は、前記2の④から明らかなとおり、昭和四八年七月二一日には手術後で入院中であるから自宅にいたはずはなく、犯行日が七月二一日であるとすれば、被告人の旧供述中、田島が出てくる箇所は虚偽ということになる。そこで、七月二一日犯行日説が成り立つためには、被告人に、田島云々の「虚偽」を述べる合理的な理由がなければならないことになるのでその点を検討する。

被告人は、先に述べたように、三人殺しを自供するに至るまでは頑強に否認していたし、田島事件の三一二万円の預金払戻の件について取調を受けた際には佐藤から頼まれたなどと虚偽を述べるなど、出来る限り自己の刑責を軽減するように努めていたことが認められる。ところで、旧供述の中で田島が出てくる場面は佐藤殺害の直接の動機形成に関する部分が中心である。殺人を認めるにしても、なるべく自己に有利な方向で事実を作ろうとすれば、被害者や第三者を悪く言おうとするのは人情であろう。田島から、佐藤が脅迫していると聞かされて殺意を抱いたと言えば、佐藤にもそれなりに落度があるということになるし、田島から言われたということにすればいくばくかは刑責が軽くなると考えてもおかしくはない。また、真の動機については口に出せない何かが隠されている可能性も否定は出来ない。これらの点を考えれば、動機部分等について田島を登場させる理由は一応あるものと考えられ、旧供述中田島が関与している旨を供述している部分は虚偽と解するのが相当である(⑤の自白においても同様のことが問題となるが、前判示のように田島に関する点も含めて全体として虚偽である。)。

ロ 被告人は、旧供述において、殺害時期を昭和四八年六月下旬ないし七月上旬としている。しかし、前判示のようにバッテリー充電日は同年七月二一日であるので被告人の殺害時期の自白との整合性が問題になる。

被告人が、殺害時期について六月下旬とか七月上旬と主張している根拠は、田植えが終わつたあとだつたと思うということにある(司法警察員に対する昭和五一年四月二七日付供述調書では、「事件を起こす三日前ころ、長谷部と一緒に熊谷市東別府に行つたところ、全部田植えは終わり、消毒をしていた。」、検察官に対する昭和五五年六月一一日付供述調書では、「六月一杯には田植えが終わるから、どちらかというと七月上旬ころの気がする。」、検察官に対する昭和五五年六月一六日付供述調書では、給油引継日報の昭和四八年七月二一日を示されて、犯行日は同日ではないかとの質問に対し、「なにしろあれからずいぶん日がたつていますから何とも言えません。田植えがおわつたころのことでしたが田植えが終わつたあとでもありますから、このくらいのずれがあるかも知れません。」などと供べている。)。ところで、「経営コンビナートの実績」と題する書面の写しによると、熊谷地方における当時の田植えの時期は、稚苗植えの場合は概ね六月一五日から二〇日、中苗植えの場合は概ね同月二〇日から三〇日であること、除草の時期は、稚苗植えの場合は六月五日から二五日、七月二五日から九月五日、中苗植えの場合は六月二〇日から七月五日、七月二〇日から八月五日、防除は、いずれの場合も六月上旬、七月上旬、八月下旬であること、昭和四八年当時は、熊谷市東別府近辺の農業は機械化が進み、作業体系の変換期にあつたことが認められる。すると、田植えの時期を基準とすると、被告人の自白の六月下旬ないし七月上旬との点は、六月中旬から七月上旬までと修正して考えねばならないことになろう。また消毒の時期を基準とすると六月上旬から八月下旬までと修正して考える必要がある。

被告人の殺害時期に関する自白が故意に虚偽を述べたものであると認めるに足りる証拠はない。しかし、被告人が逮捕され佐藤事件について取調を受けたのは事件後二年半以上経つてからであること、また、基準となるものが、田植えが終わつたころ、あるいは消毒のころという曖昧なものであることを考えれば、一か月前後の記憶違いがあつても何ら不思議ではない。ちなみに、前記のように、被告人自身検察官に対する供述調書において、殺害時期については記憶が必ずしも明確でないことを認めている。

以上のとおりであるから、殺害時期についての被告人の自白は、必ずしも明確とはいえず、バッテリー充電の事実を否定する根拠とはなしえない。

ハ 被告人は、旧供述中③、④の自白では、佐藤殺害の時刻を午後五時ころと述べている(検察官に対する昭和五一年五月六日付供述調書では午後四時三〇分ころと、また、当裁判所が昭和五七年三月一一日に実施した現場検証の際の被告人質問では午後二時から三時ころまでの間とも述べている。)。しかし、殺害日を前記日報によつて同四八年七月二一日であると考えると、殺害時刻は、右日報の記載に照すとおそくも午後二時以前ではないかとの可能性があり、被告人の殺害時刻についての自白が虚偽あるいは勘違いということがいえるか、または、日報の記載からは充電の時刻は不明であるといえなければならないことになるので、以下検討する。

〈証拠〉によれば、被告人がバッテリー充電を依頼した出光ガソリンスタンドでは、一日に三回売上げを集計し、それを前記日報に記載することになつているが(最初鉛筆で書いてわき、翌日ペンでそれをなぞる扱いになつていた。)、集計時刻は、一回目が午前一〇時ころで、オイルとかバッテリー充電などがガソリン以外のものの「掛売分」は前記日報の裏の掛売欄1の欄に記入し、二回目の集計が午後三時ころで、掛売は2の欄に記入し、その後の売上げは、掛売は3の欄に記入すること、現金売りは1ないし3という区別はなく、いずれの集計の時も現金売りの欄に記入する扱いになつていること、同四八年七月二一日の現金によるバッテリー充電の記載は、上から三番目にあるところ、午後三時ころから記入を始めたと考えられる2の欄のF一〇〇(オイル)の掛売の記載が、現金売りのバッテリー充電のあとに記載されていること、右現金売明細表には、灯油、パンク、充電、プラグ、パンクの順に記載がなされており、右日報の表欄には、灯油の現金売は2欄に記載されていること、右日報の記載事務は、小川の担当であり、同日も担当していたが、掛売欄の記載区分の取扱についてそれに従つていたかどうかは必ずしも明らかではなく、小川の退社時間である午後五時三〇分ころまでは同人が営業担当者の作成したメモに基づいて日報に記入していたこと、右日報の表欄については三回の集計毎にメーター数を記入することとなつており、概ね右取扱によつていたことがそれぞれ認められる。これらの事実に照らすと、当該バッテリー充電も2の時間帯(午前一〇時ないし午後三時)の売上げである可能性が高い。このことは、一月分から七月分まで提出されている前記日報を一覧すると、ほとんどについて、上から三回の集計の順番に従つて記入されているように窺われることからも推認される。それ以上に充電時間を確定することは前記認定事実によると困難であるが、仮に小川が定められた三時の集計によつて記帳したと考えると、三時にしめて集計するといつても、すぐに日報に記載する訳ではないから、三〇分くらいの時間のずれを考慮すると、充電の客が右ガソリンスタンドにバッテリーを取りに来て現金で代金を支払つたのは(代金は、バッテリーを取りに来たときに支払うのが普通であろうし、被告人の自白もそうなつている。)、午後三時三〇分ころより前ということになりそうである。ここから③、④の自白に沿つて被告人の行動を逆算すると、充電を依頼しに来たのがその一時間弱前であるから、長谷部の車が置いてある美土里町公園脇空地(元駐在所の斜め前)に来た時刻は、バッテリーを取り外した時間、そこから出光ガソリンスタンドまで約二五〇メートルを自転車で移動した時間などを含めると午後二時三〇分以前となり、佐藤殺害のあと、佐藤方で死体を押入に隠したり、風呂場で一休みしたり、入口のガラス戸の割れているのを補修したりしたうえ、元佐藤方から美土里町公園脇の空地まで約一〇八キロメートルを自転車で移動した時間などを合わせて約三〇分ないし一時間とすると、佐藤殺害時刻は、遅くとも午後一時三〇分から二時以前ということになると一応は思われる。

しかし、幸要も、日報の記載から本件充電は三時以前であると思うと供述する一方で、充電時刻は分らないとも供述しているし、日報を記載する時刻などはあくまで推測でしかなく、小川の供述のように三時より相当あとになつているかもしれず、殺害時刻についての右のような推論がそのまま成り立つか否かは必ずしも明らかとはいえない。また、仮に殺害時刻が午後一時三〇分ないし二時ころ以前であるとしても、殺害時刻に関する被告人の供述は、田島の家に行つた時刻が午後三時ころだから、それから計算するとそうなるというものであるから、前判示のように田島の関与の点についての被告人の自白は虚偽と解されるので、殺害時刻に関する被告人の供述は何らの意味も持たないことになる。以上の諸点を考えると、日報の記載時刻と被告人の自白との間のずれにそれほど重要な意味を持たせる理由はないと考えられる。

以上検討の結果、田島の関与、犯行時期、犯行時刻についての被告人の供述は、いずれも虚偽ないしは不確かなものであり、結局、佐藤の死体運搬に使う長谷部所有の車検切れ自動車のバッテリーが切れていたので、取り外して自衛隊前にある出光ガソリンスタンドに持参して急速で充電したという事実を否定するほどの意味を有するものではないというべきである。

(四) 旧供述についてのその他の疑問点について

弁護人は、旧供述はいろいろの点で信用性に乏しいと主張するので、以下それらの点について検討する。

(1) 血液反応について

弁護人は、元佐藤朝三方二階押入に存在した血痕は非常に微量であつて、人血か獣血かの判断も出来ないものであり、押入には人血を吸つた蚤や蚊、鼠やごきぶりなどが生息しているから、それらの血痕などでないとは断定出来ないので、右押入から血液反応が検出されたことは被告人の旧供述を裏付けるものではなく、もし被告人の旧供述が真実であるとすれば、血痕は一か所に集中する筈で、押入の左右に点々と存する筈はなく、押入だけに血痕があるのも不可解であり、佐藤の死体を運び出す際にベランダや階段などにも血痕が付着している筈であると主張する。

確かに、〈証拠〉によれば、検証当時(同年五月二七日)押入に存在した血痕は肉眼では確認できないほどの微量であつて、人血か獣血かの区別も出来なかつたことが認められる。しかし、被告人の旧供述によれば、殴つたところからは血がしみだすように流れ出したが、付近に飛び散る程ではなかつたこと、佐藤は桑の木を加工していたが、そのときに畳を傷つけないようにと紙袋を破いて広げて敷いてあつたから、畳には血がつかなかつたこと、死体の頭にはビニール袋を被せて首のところを麻紐で縛つたこと、そして死体を一時押入に隠したことが各々認められる。この様な状況であれば、血痕が微量でもおかしくなく、また、数か所に付着していたのは、被告人自身気付かなくとも飛び散つた血液が佐藤の衣服などに付着していて、それが押入の床などに移つた可能性などを考えれば容易に説明がつく事柄である。また、血痕は、九か所も付着していたのであつて、押入に血液を持つた小動物などが入つて、そこに血痕を残す可能性が少ないことを考えると、小動物の血液が反応した可能性を全く否定することは出来ないとしても、その可能性は極めて低いと考えられる。その他のか所にも血痕が付いていても良さそうだと弁護人は主張するが、押入に死体を隠してから、再びそこから運び出すまでには数時間経過しているのであるから、衣服などに飛び散つた程度の血液であれば、既に凝固してしまつているはずであるから、ベランダや階段に血痕が付着していないからといつて特段問題とはならない。

以上のとおりであるから、この点に関する弁護人の主張は採用できない。

(2) 殺害場所について

弁護人は、旧供述にいう殺害場所である元佐藤朝三方は、すぐ北側を国道一七号線が走り、東側には空地を隔てて約三五メートルくらいのところに県道が走るほぼ角地にあること、空地を挟んで一〇メートルくらい南側には米穀商の店舗があること、西側には隣家が軒を並べていること、元佐藤方は二階建であるが、犯行場所とされる西側六畳間から下へおりるためには必ず二階南側のベランダを通らなければならないことなどに照らすと殺人現場として考えるのは疑問が多いと主張する。

司法警察員作成の昭和五一年五月一三日付検証調書等によれば、元佐藤方の位置、構造が弁護人主張のとおりであることは認められる。しかし、旧供述中でも③の自白に従えば、犯行は瞬時にして行なわれており、死体を運び出すについても周囲を充分注意して、夜間になつてから行なつたというのであり、また人通りや車の往来が多いといつても、死体を運び出したとする玄関のすぐ前は裏道であつて車が走行しているわけではないし、人通りも昼間、夜間を問わずそう多いとは思われないから、犯行や死体の運び出しが不可能な場所とは到底いえず、場所柄を論難する所論は相当ではない。

(3) 佐藤の衣服について

被告人の司法警察員に対する昭和五一年四月二七日付供述調書等によれば、犯行当日の佐藤の服装は、ネズミ色の夏服背広上下に白つぽいオープンシャツなどとなつているが、これに対して弁護人は、七月二一日の夏の暑い盛りに買物に行くのに背広などを着込むことがあるのかとの疑問を提起している。当日の気温や天候は証拠上明らかではないが、いずれにしても夏服というのであるから特に問題とするほどのことはないと考えられる。

また、弁護人は、旧供述では、佐藤は買物から帰つて来て背広も脱がず、窓も開けずに買つてきた品物を袋から取り出していたということになつているが、真夏の南西方向の二階六畳間は相当室温が高くなつているはずであるから、被告人の自白にいう佐藤の行動はおかしいとも主張する。しかし、二階の部屋に入るには、ベランダから入るのであるから、少なくともその入口のガラス戸は開けられており、締め切つた部屋で品物を出していたわけではない。背広を脱ぐか脱がないかもさしたる問題とも思われない。したがつて、弁護人の指摘するこの点も疑問とするに足りない。

(4) 弁護人は、被告人は当時腰痛を患つていたから、体重七〇キログラム以上の佐藤の死体を、階段から一人で運びおろせたとは考えられないと主張するが、被告人は一人で佐藤の死体を砂利採取場跡へ埋めていることから考えると、殺人を犯した後の緊張した精神状態の下ではその程度のことがやれても何ら不思議ではない。

(5) 更に弁護人は、長谷部は本件後三か月も経たぬうちに元佐藤方を修理・改装し、被告人に命じて佐藤名義の預金を払戻させ、預金高二〇万円のうち一九万円を受領し、残一万円を被告人に小遣銭として渡しているが、この事実は長谷部が佐藤殺害の共犯である証左であり、旧供述の真実性には疑問があると主張するが、佐藤の預金をほとんど一人占めするという右の行為はむしろ長谷部が共犯ではないことの徴証とも考えられるので、弁護人の右主張も相当ではない。

以上のとおりであるから、弁護人が、旧供述について疑問とする点はいずれも理由がないものと考えられる。

かてて加えて、前記2の⑤⑥の各事実にも徴してみれば、旧供述は少なくともその骨子ともいうべき枢要な部分においては真実性、証明力の極めて高いものと考えられる。

(五) 旧供述中②及び④の自白の信用性について

②の自白は、殺害時刻と殺害方法において③、④の自白と異なるが、首を絞めるという殺害方法は、田島事件、小林事件の双方でも最初に述べていたが、いずれも虚偽であつたことを考えると、この自白においてもその点は信用出来ない。田島を見張りに使つたという点が虚偽であることは先に説述したとおりである。殺害時期については、日報の記載に照らし措信出来ない。以上の点から考えると、②の自白は、元佐藤方でダルマジャッキで佐藤を殴り殺し、長谷部所有の車検切れの自動車で死体を運び、三ケ尻地内の砂利採取場跡地に埋めた旨の自白部分については信用性も認められるが、その余は大凡措信できないものと解するのが相当である。

④の自白は、③の自白と比べ、犯行後田島が登場する点が異なるだけで、その他は特に変りがない。したがつて、虚偽の部分が一点多いという他は③の自白と同様の評価が出来よう。

(六) 旧供述中③の自白の信用性について

以上のとおり、③の自白は旧供述の中でも偽りの部分が最も少なく、かつ虚偽の部分や疑問とされる点についてはそれなりの説明がつくものであつて、新供述の信用性判断の際に述べたように、そもそも被告人は、③の自白を基本とする旧供述を六年間もの間維持していたのである。しかも、それは極刑を覚悟の上でのことである。そのうえ、被告人の自白が先にあり、その裏付捜査をしたところ、押入から血痕が出てきたり、非常に珍しい持ち込みという方法でのバッテリー充電をしたことも認められ、いわゆる秘密の暴露を含むものであつて、かつ任意性に全く疑問がない自白である以上、その大筋においてその信用性が極めて高いことは疑問の余地がない。

4  補強証拠について

被告人は、今日でも、内容に相違はあつても、一貫して佐藤殺害を認めているのであり、佐藤との音信がないが生きていれば何らかの連絡はあるはずだという親族らの各供述は、佐藤を殺害したとの被告人の自白が架空の犯罪事実を述べているものではないと認めるのには十分である。また、押入の血痕の発見とバッテリー充電依頼の事実(その日報の記載)は、これまで述べたように、いずれもどこにでもある日常的な事象ではなく、殺害行為及び死体運搬行為に関する被告人の自白が真実であろうと首肯させるに足りるものであつて、極めて証拠価値が高いものであるから、③の自白の補強証拠としては最低限度の要求は満たすと考えられる。

以上のとおりであるから、被告人の旧供述中でも特に③の自白は大筋において措信することが出来、また、それを裏付ける補強証拠も存在するから、これらの点に関する弁護人の主張はいずれも採用できない。

四田島事件について

本事件については、佐藤事件と異なり、被告人が田島の死体を遺棄したと指示する場所から同人の遺体が発見されており、被告人も、内容に違いはあるものの、一貫して田島殺害に関与している旨の自白をしているところ、弁護人は、被告人が、捜査段階から公判途中まで維持していた公訴事実に沿う内容の自白については信用性がないと主張するので、以下検討する。

1  まず、被告人の自白を、佐藤事件と同様に並べて見ると以下のようになる。

① 昭和五一年三月一七日付上申書(三枚綴りのもの)

「昭和四九年二月末ころの夜八時ころ、田島不二夫を殺して埋めた。理由は約三五〇万円の金欲しさ。殺害場所は熊谷市大麻生の荒川の河原。後ろからベルトで絞め殺した。死体を埋めた場所は図面のとおり。」と真実の死体遺棄場所とは全く異なる地点を図示している。

② 同日付司法警察員に対する供述調書(九枚綴りのもの、一項ないし七項を除く。)

「昭和四九年二月末ころの正午ころ、熊谷市新堀の田島方に車で遊びに行くと、田島が『これから銀行へ行つて少し金を下ろしてこなくちや。』などと言つていた。私は、田島が四〇〇万円近い金を預金しているのを知つており、それを奪う機会を狙つていたので、どこかへ連れて行つて殺して通帳を奪おうと思い、荒川へ魚釣りに誘つた。田島を車に乗せ、熊谷市大麻生の荒川河原へ行き、魚釣りを始めた。同日午後四時半ころ、薄暗くなつて来たとき、自分の革バンドを外して、田島の後ろから首を絞めてその場へ倒して殺した。田島の死体からポケットの中にあつた通帳一冊と印鑑一個を奪つた。その後死体を車の助手席に寝かせて、暗くなつてから自宅へ戻り、物置からつるはしとスコップを持ち出し、車に積んで、野上町の山へ運び穴を堀つて埋めた。預金は翌日及びその後二回にわたつて引き出した。その金はギャンブルに使つた。」と殺害時刻を変えている。

③ 同月一八日付司法警察員に対する供述調書(六枚綴りのもの、二項を除く。)

同日付司法警察員に対する供述調書において、佐藤事件と同様、昨日の自白は嘘であつたと述べて、「田島を殺した日時・場所は昨日の供述と同じ。殺害方法が異なり、田島が魚釣りをしている時、うしろからバンドで田島の首を絞め、ぐつたりして倒れたところを、自分のジャンバーを脱いで頭から被せ、バンドで縛り、その上から、近くにあつた直径二〇センチメートル位の石で殴つて殺した。その後、死体を近くの藪の中へ隠し、夜になつてからジャンバーをはずし、ビニール袋二枚を頭に被せ、死体をトランクに入れ、熊谷市三ケ尻地内の大沢コンクリートの西方約三〇〇メートル離れたところにあつた砂利採り跡の穴に埋めた。」と殺害方法についての供述を変え、死体遺棄場所については真実を述べるに至つた。

④ 同月三〇日付、三一日付司法警察員に対する各供述調書

「……田島が入院している時、運転を頼まれて田島を車に乗せ熊谷に行き、田島が熊谷信用金庫籠原支店で預金を下ろし、その金を埼玉銀行熊谷西支店に預金をした際、田島から三〇〇万円ちよつと預金があるといわれ、その金が欲しくて、何時か機会があつたら田島を殺してその金を取つてやろうと狙つていた。昭和四九年二月二二日午後一時ころ、田島方へ車で行くと、田島は相変らずウイスキーを飲んでいた。雑談し、午後二時過ぎころ、これから魚釣りに行こうということになつた。すると、田島が、被告人に、ついでに銀行に回つてくれるよう頼み、通帳と印鑑をステレオの中から出してズボンのポケットに入れたので、田島を殺して通帳を奪うのは今日がチャンスだと思つた。そこで、荒川園(釣堀)に行つて鯉でも釣ろうと田島を誘い出した。荒川園は冬は休業だということは分かつていたが、前に田島と一緒に行つているので、その名前を出せば、同人が気持良く応ずると思つてそう言つた。午後二時三〇分過ぎころ荒川園に着いたが、休園中だつた。被告人が、銀行はどうしても今日行かなければいけないのかと尋ねると、田島が、今日でも明日でも構わないと答えたので、被告人が『せつかく来たのだからクキ(雑魚)釣りにでも行こうか。』と誘い、田島が承諾したので、植松橋下流五〇〇メートル付近の荒川河原に行つた。広場へ車を駐車してトランクから釣り道具を出して、二人分の仕掛けを作り、田島が川下、被告人が川上で釣つた。田島はすぐにウイスキーをラッパ飲みしだした。約二時間釣つたが、共に二匹くらいしか釣れなかつた。午後五時過ぎたころ、もう人が来る心配もないから、田島を殺そうと思い、手近に良い石がないので、自動車の方へ歩いて行き、直径二〇ないし二五センチメートルくらいの石を拾い、両手で抱えて田島のうしろへ近付き、石を振り上げ、田島の頭をいきなり力一杯殴りつけた。田島は声も出さずに後ろに仰向けに倒れたが、倒れてからも手足を動かしているので、その石で更に頭の付近を四、五回殴りつけた。相当血が出ているので、被告人のジャンバーを被せ、被告人のバンドで首のところを力一杯結んだ。すぐに死体を北西方の草むらの中へ運び込み、釣り道具を片付け車の座席へ入れ、トランク内のものを座席の中へ入れ、トランク内はマットまで出して、血がついても洗えば落ちるようにした。死体をトランクに入れ、血のついた石やウイスキー瓶までトランクに入れ、植松橋の方へ戻り、橋の下で車を停車させ、石とウイスキー瓶を川の中へ捨てた。殺害からここまで二〇分位かかつた。橋の下に三〇分から一時間くらいいて暗くなるのを待つた。午後六時三〇分ないし七時ころ出発し、途中御稜威ケ原のごみ捨て場で田島の死体から貯金通帳や印鑑を奪い、ジャンバーを取り除き、ごみ捨て場から拾つてきたビニール袋を頭から被せバンドで縛つた。その場所に一時間くらいいて、その後被告人方へ戻り、物置にあつた別の作業用ジャンバーを着、物置からスコップを持つて来て、死体を埋めに三ケ尻の砂利採取場に行き、午後八時三〇分ころから九時三〇分ころまでかかつて埋めた。そのとき皮製小銭入れを盗んだ。その後帰宅し、家に入る前に入浴した。

翌朝八時ころ、車で荒川河原に行き、田島の頭に掛けたジャンバーなどに石油を掛けて燃し、車のトランクを洗つたりした。午前一〇時ころ埼玉銀行熊谷西支店に行き一五〇万円を下ろした。その後、田島が帰宅しないと同人の妹が捜索願いでも出すと困るので、『家賃帳はステレオの中にある。不二夫より妹へ』と書いた封筒の中へ、下してきた金の中から五万円を入れて、郵便受けに投げ込んだ。……」と、③の供述と比べ、殺害場所が同じ荒川河原でも約四キロメートル上流に変り、殺害方法もバンドで首を絞めたとの点がなくなつた。そして、この自白とほぼ同様の自白を、捜査段階・公判を通して次の⑤の新供述になるまで維持していた。

⑤ 昭和五七年四月以降今日に至るまでの新供述

「……被告人、長谷部、田島の三人で佐藤朝三を殺害してから、長谷部は何かと田島の心配をしてやり、仕事も世話したが、田島は相変らず酒ばかり飲んでいた。昭和四九年二月二二日の朝、被告人方に長谷部が来て、被告人を車で熊谷市玉井の石丸病院のそばの公園に連れて行き、車内で、『どうも田島のやつには困つた。』『あんなに正体を失うほど飲むんじやどうしようもない。何を喋るか分らない。』『そうなつてからでは取返しがつかない。』などと言うので、田島を殺害するつもりなのか尋ねてみると、『そうだよ。それで、田島を殺つちまつたら、奴の金をいただこう。』などと言つた。被告人もこれに賛成し、その日に田島を殺害することにした。一旦別れたが、同日午後三時ころ、長谷部が被告人方に来て被告人を車で御稜威ケ原の元小川清方に連れて行つて、車のトランクから石工用のハンマー一丁(小林事件で使用したものと同種のもの)とビニール製の肥料の空袋二枚とビニール紐一本をかます筵を二つ折りにして、その間に挟んで持つて来て物置に隠し、それから長さ約九〇センチメートルで直径約四センチメートルの鉄パイプを一本持つて来て、『今夜七時ころ、俺がうまく田島を誘つてここへ連れて来るから、先に来て物置の中に隠れていてくれ。俺と田島で車のキーをなくしたからといつて捜しているから、その隙を見て奴の頭を殴つてくれ。』と言つて、被告人にその鉄パイプを渡した。被告人は、長谷部に送られて帰宅し、長谷部は田島の家に向つた。同日午後六時三〇分ころ、被告人は、徒歩で元小川清宅へ向い、七時前に到着した。長谷部が田島を車に乗せ連れて来た。長谷部は、田島に対し、『これから女を紹介するから行つてみよう。』と騙して、田島を元小川清宅に連れてきたということだつた。そのうち、車のキーを捜している様子がしたので、顔を出して様子を見ると、長谷部が合図をしたので、夢中で飛び出し、腰を曲げて地面を見ていた田島の頭に鉄パイプで一撃した。確かな手応えが感じられ、田島は無言で膝を付いて崩れた。今度は長谷部がハンマーで田島の脳天を一発殴つた。田島は横に倒れた。被告人が田島の頭から顔にかけてビニールの袋を被せた。長谷部がビニールの紐を首に巻きつけた。被告人が車を庭に入れ、トランクの中の物を後部座席に積み替え、長谷部がトランク内にかます筵を敷き、二人で田島の死体をトランクに入れた。その後車で死体を運び、砂利採取場跡の穴に埋めた。その後着替えなどをして帰宅した。翌朝六時前に長谷部が被告人宅に来て、二人で元小川清宅に行つた。庭に田島の眼鏡と黒皮の小銭入れが落ちており、中に田島の家の玄関の鍵が入つていた。その後、二人で熊谷市大麻生の荒川河原に行き、昨夜着ていた物やかます筵などを石油をかけて燃した。また、残つていた石油をトランクに空けてたわしを使つて洗つた。洗車してから日立金属社員寮に置いてあつた長谷部の車に乗り換え、田島の家の前を通つて言ると、まだ田島の妹が家にいるような様子だつたので、車を脇道に入れて時間を過ごした。そのうちに田島の妹が自転車に乗つて通つたので、跡をつけて電車に乗るのを確かめてから、田島の家に行き、被告人が玄関の鍵を開けて侵入し、物色して、洋服箪笥の引出に入つていた預金通帳と印鑑を盗んだ。長谷部は外で待つていた。二人は、一旦長谷部の家へ行き、長谷部が、田島の書いた領収書を持つて来て、二人で埼玉銀行熊谷西支店へ向い、長谷部が払戻請求書用紙を持つて来て、車内で被告人が田島の筆跡をまねて田島不二夫の名前をそれに書き、長谷部が銀行に入り一八〇万円を下して来て、被告人に八〇万円を渡した。その後、田島の家の郵便箱の中に『家賃帳はステレオの中にある。不二夫より妹へ。』と書いた五万円入り封筒を入れた。それから二人で長谷部の事務所の二階へ行きお茶を飲んだが、長谷部が『もしばれた場合には、先に足のついた者が全部背負うのだ。万一どうしようもなくなつたら、そのときは思い切りよく自殺をするんだ。』と言つたので、被告人も『俺だつてそのくらいの覚悟は出来ている。』と堅い約束をした。」と、共犯者として長谷部の名を出し、殺害場所が元小川清宅(判示第四の恐喝の現場)、殺害方法について鉄パイプ及びハンマーによる殴打、通帳等を盗んだ日時が殺害の翌日、場所が田島の家などと、従来の自白と全く異なる内容に変つている。これまで「虚偽」を述べていた理由、「真実」を述べるに至つた理由などは佐藤事件と同様である。

2  当裁判所としては、これらの自白のうち、④の自白が信用性が高く、その余の自白は一部分あるいは枢要な部分においていずれも措信し難いとの結論に達したので、以下説明する。

(一) ①ないし③の自白について

田島の遺体を解剖した医師古屋義人作成の昭和五一年四月二二日付鑑定書(以下「古屋鑑定書」という。)及び同人の司法警察員に対する同月二六日付供述調書によれば、田島の遺体の喉頭気管等頸部器官には特記すべき所見がなく、舌骨及び喉頭軟骨に損傷は認められず、頸圧迫による窒息と診断する根拠は一つも見出せなかつたことが認められる。一方後記のとおり、田島の死体には生前の損傷と認められる極めて顕著複雑な頭蓋骨骨折が存する事に徴してみると、①、②の自白は殺害方法において虚偽と考えられ、田島の死体遺棄場所についても虚偽を述べていたのであるからその枢要な部分において信用性に欠けることは明らかである。

また、③の自白は、田島の殺害方法について、首を絞めたと述べている点が甚だ疑わしく、殺害場所に関しても①、②の自白と同様と述べただけのものであることに照らすと、③の自白も全面的には措信し難いものと考えられる。

(二) ④と⑤の自白について

この両自白は、犯行場所、殺害方法、共犯者の有無、田島の預金通帳と印鑑を奪つた日時・場所などについて全く内容を異にするのであるが、田島事件についても、犯行発覚が遅く、死体、普通預金払戻請求書以外には、凶器や目ぼしい犯行の痕跡などがあるわけではなく、また、被告人が⑤の自白で共犯者であると主張している長谷部金藏は、前記のとおり恐喝事件で逮捕されたが昭和五一年四月一六日に保釈され、その直後に「人殺しだけはしていない。」などと書いた遺書を残したまま首吊り自殺している事情にあるため(〈証拠〉)、犯行場所、共犯者の有無、通帳等を奪つた日時・場所などについては、被告人の自白以外の証拠で確定することは相当困難な状況にある。

しかし、殺害方法については、田島の遺体の損傷状況からして、⑤の自白にある鉄パイプ及び石工用ハンマー(金槌、以下同じ。)による頭部殴打によつて同人の頭蓋骨骨折が生じたとすべき根拠は全くなく、④の自白にある石(昭和五五年押第三三三号の23は、昭和五一年四月一日に実施された被告人立会の実況見分の際、被告人が、犯行に使用した石を捨てたと指示した埼玉県大里郡川本村大字田中三二八番地先荒川河川敷の植松橋下において、被告人が、田島を殴つたのは「このくらいの石でこんな形の石でした。」と指示したものを領置したもので、長さ約二六・五センチメートル、幅約一三センチメートル、厚さ約一一・五センチメートルのもの。)による殴打が符合するとの内容の法医学教授医師内藤道興の供述部分(第二七回公判調書、以下「内藤供述」という。)及び同人作成の昭和五九年九月二〇日付鑑定書(以下「内藤鑑定書」という。)が存在するので、それらを手掛かりに、田島の殺害方法について見てみる。

(1)イ 内藤鑑定書は、田島の遺体そのものを直接見分してのものではなく、主として古屋鑑定書、殊にその中に添付の数か所にわたり骨折した状況が写されている田島の頭蓋骨の写真をもとに殺害方法についての結論を導いているが、

a まず、田島の遺体に存在した頭蓋骨骨折について、同鑑定書は古屋鑑定書中の、頭部、顔面、頸部等の軟部組織の状態としては「前頭部には皮下に止どまる辺縁不整のおよそ米粒大の創が一個ある。」との記載及び古屋鑑定書添付の田島の遺体の写真から、「頭部、顔面の軟部組織はかなり良く保たれていた。」と推論し、これをもとに「頭蓋骨骨折は極めて顕著複雑であり、発掘に察しての外力により、軟部組織に損傷を与えることなしにこれらの骨折を生起することは到底不可能と思われる。」とし、頭蓋骨骨折が生前のものであると結論づけている。

これに対して弁護人は、古屋鑑定書には、田島の遺体に「明らかに生前に発生したと判断される損傷はどこにも見付からない。」と記載されていること、古屋鑑定書には「前頭部に創がある。」と言つているだけで「他に傷はない。」とは言つていないではないか、顔面、前頭部にかけて軟部組織の状態が良好に保たれていたなら、当該部分の骨欠損は見られない筈であるが、実際には当該部分の骨欠損が著しいなどとして、内藤鑑定書の「遺体の骨折は生前に生起されたものである。」との結論は極めて正確さを欠いていると主張する。

確かに、内藤鑑定書が頭蓋骨骨折自体は生前に生起されたものであると結論づけた点は措辞やや適切さを欠く嫌がないではないが、内藤鑑定書が頭蓋骨骨折を生前のものと判断しているのは、遺体発掘の際のショベルカーなどによる損傷であるのか、それよりも前から発生していた損傷であるのかという関係で述べていることは内藤供述からも明らかである。そして、弁護人指摘の古屋鑑定書に「前頭部に創がある。」と記載されている点に関しても、同鑑定書は米粒大の小さな傷を指摘しているのであるから、発掘の際に頭部の軟部組織にショベルカーなどで損傷を与えていたとすれば当然その点の指摘があるはずであり、司法警察員益岡栄一作成の昭和五一年五月一日付検証調書によると、もともと発掘時にショベルカーなどによる挫傷も認められず、他に大きな傷があつたとは到底考えられない。したがつて、田島の頭蓋骨骨折が、生前か死後に生起したかはともかくとして、発掘前に存在したものであるという限度では内藤鑑定書には何等正確さを欠いた点は認められない。

そして、発掘物に骨折が生じた可能性としては、田島の遺体が地表から約九・七五メートル地中に埋められていたことから、弁護人が指摘するように、土砂等の重量による圧迫により頭蓋骨骨折が生じたのではないかとも一応考えられるが、田島の遺体が存在した場所は砂利採取跡の埋立地であるから、遺体は土砂の中に埋められていて、その後その上にどんどん土砂、がれきが積まれたものと認められる。ところで、前記検証調書によれば、田島の遺体は、バックホーショベルで発掘中まずその下体が発見され、更に下体が発見された南側のショベルで削り取つた底部分から〇・七メートルのか所の土中に腰から上体が埋没されており、つるはし、スコップ等で上体の上部、左右の土を除去して頭部を南、胴部を北にし、うつ伏せで頭を東に向けて埋没されていた上体を発掘したものであり、田島の頭蓋骨骨折は頭頂部、顔面等数か所にあり、骨折の仕方も複雑であつて、土中にある頭蓋骨が、上下方向の圧迫によつて数か所にわたり多方向の複雑な骨折を起こすとはとても考えられない。そうすると、右骨折は、遺体が土中に埋没する以前に生じたものと解されるが、右いずれの自白にもある「田島の頭部を鈍体で殴打した。」との供述を考慮に入れれば、田島の頭蓋骨骨折、生前の鈍器による殴打によつて生じたものであることは明らかである。

b 次に右の骨折がなんで作られたか、その凶器の推定であるが、内藤鑑定書は、田島の頭蓋骨後面に存在する骨欠損及び骨折(別紙図面、同鑑定書写真一一、付図一のもの。)について、骨欠損の周辺に波及する骨折は、前方に向い矢状縫合、左右後方に向いラムダ縫合の各離間と同図でc―c′―c″、a′―a″′―a″、f―gの各骨折で、かなり放射状に近いこと、また右縁を形成するb′―f、f′―v′もそれぞれ弧をえがいていることから、鈍器は重量のあるものであり、頭蓋骨に作用した大きさはa―b―f―v′―d″′―d′―c―aによつて囲まれる骨折(約五センチメートル×八ないし九センチメートル)によつてあらわされていると考え、押収してある石(昭和五五年押第三三三号の23)のようなものは、表面はかなり平滑で凸隆部分に丸みを有し、しかもその形態が一定でないところなどから、この骨折を生じるには極めて好条件であるが、大型ハンマーについては、ハンマーの打撃面の全面が大体平等に頭蓋骨に作用することが少なく、やや斜方向から打撃を受けやすいことによつて、骨折面が階段状(テラス状)になることが多いが、田島の頭蓋骨骨折にその痕跡は全くないし、長さ九〇センチメートルくらい、太さ四センチメートルくらいの鉄パイプによる打撃、すなわち、かなり重量のあるとみられる硬固な丸棒状のもので強打されて生じたとみるべき、幅が狭く、長さを有する陥没骨折も全く認められないから、田島の頭蓋骨に存在した骨折がそれらによるものと認める根拠は全くないと判断している。また、顔面正面を中心とする骨折については、これは粉砕状の複雑な骨折になつており、その辺縁部にハンマー、鉄パイプの作用によることを疑わせるような骨折線は見出せないし、頭蓋腔内にかなり深く進入している感をいだかせるので、比較的菲薄で脆弱な部分と見られる顔面骨を破砕して、前記石の如き凸隆部分が頭蓋の奥まで到達したように見ることが出来、また、骨折の複雑さから、作用した外力は二、三回の作用の可能性が濃く、更に左側顔面には正面とは別個の外力作用による骨折が存すると判断している。その結論として、「田島不二夫の遺体の損傷状況は、被告人の捜査段階における供述による犯行の手段方法である前記石の如きものによる殴打が符合し、公判段階において変更した供述による犯行の手段方法である鉄パイプと石工用ハンマーの如きものとの殴打によつて生じたとすべき根拠は全く見出し得ない。」とした。

別紙図面

これに対して弁護人は、田島の頭蓋骨骨片は、完全に原型に復したわけではないから、階段状の骨折があつたかどうかは不明である、ハンマーによる打撲に際して必ずしも階段状の骨折が生ずるわけではない、内藤鑑定書付図一のA骨片が陥没していることを認めながら、その生起された原因、そこが階段状の骨折であつたか否かについて全く触れず、更には凶器の大きさを認定する手掛かりにも用いてないのは奇妙である、また、内藤鑑定書の、鉄パイプの打撃に関する記述に対しても、同鑑定書が「田島の遺体には左側面には左上顎―頬骨―前頭―頭頂骨にまたがる骨折があり、これは顔の正面とは別個の外力作用とみるのが妥当のように思われる。」としながら、これについて、その状態・原因等何ら述べていないが、被告人は公判廷において検察官の間に対し、検察官の左斜め前方に立つて殴る動作をしており、遺体の左側面の骨折は、この被告人の動作供述にまさに符合する、古屋鑑定書の写真を見る限り、遺体顔面左側面の骨折は、骨片欠損が著しいが、欠損した部分に鉄パイプで強打されて生じたと見るべき幅の狭い陥没骨折が存しなかつたと断定することは不可能であるなどと非難し、内藤鑑定書の信用性に疑問を投げかけている。

しかし、頭蓋骨後面にある骨折について、放射状に長く亀裂が生じていること、辺縁が弧をえがいていること及びその発生している位置から、凶器が重量のあるもので作用した鈍体の大きさが約五センチメートル×八ないし九センチメートルであるとする鑑定結果は、それ自体何ら矛盾、不合理な点がある訳ではない。弁護人指摘のA骨片についても、その辺縁のa―cが弧状であることを判断の一根拠としている訳であり、何ら鑑定の用に供していない訳ではない。内藤鑑定書は、古屋鑑定書に添付されている頭蓋骨の写真から判断しうるか所にはどこにもハンマーや鉄パイプで殴打したと認めるべき痕跡がないというのであつて、そこには顔面の左側面も当然含まれていると解される(もつとも左顔面の骨折については、具体的な分析がなされていないので説明不十分とのそしりを受ける点は認められる。)。要するに、内藤鑑定書は古屋鑑定書に添付されている写真で判明する限りにおいて、ハンマーや鉄パイプで殴つて出来たと見るべき骨折の痕跡はなく、石で殴打したと考えれば不合理な点はないと鑑定しているだけである。右写真では看取しえない骨陥没部分に階段状の骨折面があるか否かについては言及していないのであるから、内藤鑑定書に対する弁護人の批判は当たらない。

ロ 内藤鑑定書は、被告人の⑤の自白における殺害方法について、ハンマーとか鉄パイプで殴打した痕跡は全く見出せないとだけ鑑定し、殴打の回数には特段触れていないが、被告人の新供述によれば、長谷部と一緒に田島を殺害した態様は、まず被告人において、鉄パイプで田島の脳天のやや左斜横を一回殴打し、その後長谷部がハンマーで一回くらい脳天あたりを殴打しただけということになつている。それが真実であるとすれば、骨折か所は二か所くらいの筈であり、しかも、粉砕状といつた複雑な骨折になつているとは考えられない。そうすると、何が原因で顔面の複雑な骨折が発生したのかの説明が必要になるが、前判示のように頭蓋骨骨折は、死体の埋没前に生じたものと解されるので、結局、被告人の⑤の自白にいう殺害方法は客観的事実に反し到底措信し難い。それに反し、④の自白による殺害方法は、石で背後から頭部を殴打し、仰向けに倒れたところを更に頭の付近を四、五回殴りつけたというのであつて、一見して田島の頭蓋骨の写真と一致している。しかも、その自白は、田島の遺体が発見されてから初めてなされたものでもなく、それ以前から述べており、以後六年間もの間一貫して維持していたのである。

以上のように、内藤鑑定書により、古屋鑑定書添付の田島の遺体の写真等から見る限り、新供述にいう鉄パイプやハンマーによる頭部殴打の痕跡が見出せないとされていること、新供述にいう方法では、顔面の複雑な骨折が如何にして発生したか説明に困難なこと、④の自白による殺害方法と頭蓋骨骨折の状況が合致していることなどに照らすと、少なくとも田島の殺害方法については、④の自白を信用せざるを得ないことは明らかである。

(2) 次に、殺害方法以外の点を少し検討する。

イ 長谷部金藏が田島事件の共犯者であるか否かについて

前記のとおり、長谷部は、「人殺しだけはしてない。」ということを強調した遺書を書いて首吊り自殺をしている。この遺書について、被告人は、長谷部の筆跡ではないと述べているが(第二三回公判調書)、〈証拠〉によれば、長谷部の筆跡であることは疑問の余地がない。ところで、被告人の⑤の自白によれば、被告人と長谷部の間で、事件(田島事件及び佐藤事件)のことがばれたら、先に足のついた方が全部背負い、万一どうしようもなくなつたら思い切り良く自殺するという約束が出来ていたとのことであるが、既に被告人は田島殺しの被疑者として逮捕取調を受け、被告人の自白に基づき田島の遺体が発見されていたのであるから、右約束を前提とすれば長谷部が罪をかぶつて自殺する理由はないことになるし、自殺するとしても、自分がやつた旨の遺書を残す筈であるのに長谷部の遺書にはかえつて「人殺しだけはしてない。」旨の記載があることから考えると、共同犯行を前提とする右「約束」の存在には疑問の余地が大きいことは明らかである。

ロ 通帳等を盗んだ日時・場所について

⑤の自白によれば、田島の通帳と印鑑は、田島殺害の翌日、田島の自宅に行き、同人の妹が外出するのを見計らつて、田島の鍵を使つて家の中に入り、洋服箪笥の中から盗んだということになつている。しかし、〈証拠〉によれば、田島が失踪したその日に、同人の妹染矢(当時田島)ミサオは、田島が夜なかなか帰つて来ないことから、その夜、兄田島明に電話を掛け「朝兄貴はそわそわしていて出掛ける支度をしていた、通帳と印鑑を持つて行つたようだ。」と述べた事実が認められる。したがつて、田島殺害の翌日に、被告人が田島方から通帳と印鑑を盗み出せる筈はないから、この点についての被告人の⑤の自白も虚偽であると考えられる。

もつとも、弁護人は、田島の帰宅が遅いといつて、すぐに通帳を捜すような妹がいるであろうかと右田島明、染矢ミサオの調書の信用性に疑問を投げかけているが、〈証拠〉によれば、田島は、自宅敷地を半分売却して家を建てたが、その後その家を処分するについて、明やミサオに何も言わないまま売却してしまい、ミサオは引越しの当日になつてそのことを知つたというような無茶なことをしていたこと、田島が失踪した当日の朝、同人は、外出するような服装をしていたこと、同人は、普段帰りがそれほど遅くなることはなかつたことなどの事実が認められ、その様な人の帰宅が遅いとなれば多額の預金がある通帳のことが心配になることは容易に考えられ、前記各供述調書の信用性に特段疑問は存しない。

ハ 田島の遺体の頭に被せられていたビニール袋(昭和五五年押第三三三号の10)について

⑤の自白では、このビニール袋は、長谷部が持つて来たことになつているが、④の自白では、田島の遺体から通帳等を盗んだ御稜威ケ原のごみ捨て場で拾つて来て被せたということになつている。

ところで、大河原脩次、岩本昭信、山岸孝の司法警察員に対する各供述調書によると、このビニール袋は、サンロードフレークという商品二五キログラムが詰められていたものであるが、サンロードフレークは、塩化カルシウムの商品名であること、その用途は、非舗装道路の防塵用、舗装道路の凍結防止用(融雪剤)などであること、使用業者としては、道路公団、建設省道路工事事務所、市町村役場、建設業者などであり、埼玉県内での販売には、犯行時に接近したものとしては、昭和四七年一〇月に二か所合計五・五トン、同年一一月に一か所二・五トン、同年一二月に行田土木事務所へ六・四トン、熊谷土木事務所に一二・五五トンがあること、その熊谷土木事務所では、納入されたサンロードフレークを、同四八年一月二一日に大雪が降つたあと、融雪剤として大量に散布し、同年二月一六日に、その空袋五〇〇枚を熊谷市役所のごみ捨て場になつていた同市御稜威ケ原のごみ捨て場に投棄したことが認められる。以上の事実によれば、④の自白で被告人が述べている、御稜威ケ原のごみ捨て場でビニール袋を拾つたという自白は裏付けがあり、それなりに信用性が高いが、⑤の自白によると長谷部がサンロードフレークないしその空き袋をどこからか手に入れて来たことになるが、サンロードフレークは、前記のとおり一回に何トンも購入するもののようであり、また、その用途から考えると、長谷部がこれを購入したものと解するのはやや不合理であり、更にわざわざビニール袋をいずこからか拾つて来るというのもおかしなことであつて、いずれにせよ⑤の自白にはこれを裏付ける証拠がなく、長谷部がこの空き袋を持つていたという供述部分もかなり疑わしいと考えられる。

以上のように、⑤の自白は、殺害方法において虚偽であり、その他にも虚偽ないし疑問のか所が何点かあるから、全体的に信用性に欠けることはもはや明白である。

(3) 他方、④の自白は客観的事実にも符合し、裏付証拠も存し、信用性の高いものと解されるが、弁護人は、何点か理由をあげて、④の自白の信用性を攻撃するので、その点について付言する。

イ 殺害場所について

弁護人は、④の自白による殺害場所である荒川河原は、付近に舗装道路が走つており、更に道路の北側には砂利採取販売の事務所などがあつて、人・車の往来も少なくないこと、殺害当時は真冬であつて、死体を隠すような草むらは存しなかつたこと、対岸には何ら建造物等はなく、対岸からの見通しが良いこと、凶器とされた石も当時現場に存したかどうかも疑問があること等を理由に人目につかずに人を殺害することは極めて困難であると主張する。

現場の位置的状況は弁護人の指摘するとおりであるが、それはとても人目につく場所であるなどといえる所でないことは明らかである。同所は人家を離れた河原であり、付近には事務所以外には人家などはなく、もちろん商店も見当たらず、土手上の舗装道路は幹線道路ではなく、交通量も多いとは認められない。また対岸までは相当距離があり、確かに対岸に建物などは少ないが、冬期には精々魚釣りに来る人の外には訪れる人も少なく目撃者がいる可能性は少ないものと考えられる。犯行当時死体を隠す草むらがあつたか否かについては、本件証拠上確定的なことは認定できないが、昭和五一年四月一日に行なわれた実況見分の際の写真によれば、四月でも相当背丈の高い枯れ草が生えていたから、本件犯行当時もむしろ死体を隠せる程度の草むらがあつた可能性の方が強い。最後に、田島を殴打したとする石にしても、当裁判所が昭和五八年一二月六日に実施した検証の際に、確かに弁護人指摘のように土中に埋つてはいたが、一部上部が露出した石四個(いずれも押収してある石(昭和五五年押第三三三号の23)に類似のもの。)が存在しており、もともと本件犯行現場は河原であるから、押収してある石のような石がころがつていて何ら不思議ではなく、弁護人主張の本件犯行当時現場には凶器と目される石は存しなかつたと解するほうが不自然である。

以上のとおりであるから、これらの点に関する弁護人の指摘は当を得ないものである。

ロ 銀行へ行こうとしていたような軽装で、真冬の厳寒の河原で何時間も釣りをするというのは非現実的であるとの点について

関係証拠によれば、田島の当時着用していた服装は、腹巻、長袖肌着、オープンシャツ、セーター、ジャンバー、パンツ、股引き、ジーパンズボンであり、また靴下を履いて革靴ばきであつたから軽装とはいえないが、確かに弁護人の指摘するように、日常よく生起する事柄とはいえない面も否めない。しかし、田島も被告人も釣りが相当好きであり、田島は釣りの前から飲酒しており、釣りの間もボトルのウイスキーをラッパ飲みしていたのであるから、右のような当時の服装をも併せ考慮すると、厳寒期の河原で釣りをするのは物好きではあるが、決して非現実的な出来事とまではいえない。また弁護人は、冬期に石斑魚などが釣れるにしても釣り人はいない筈であると主張するが、証人三村源次、同栗原正一の各供述によると冬期でも釣り人がいることが認められるので、弁護人の右主張も当を得ない。

ハ 被告人の捜査段階における自白にも変遷があるとの点について

弁護人は、被告人の当初の自白も変遷があり、殊に田島の服装、履物の点は遺体が発見されてから訂正もあり、これは捜査官の取調に迎合したからであると主張するが、およそ被疑者が犯行の全てについて細部にわたるまで記憶していることの方が不自然である。被告人は、先に指摘したとおり、逮捕された当初は一貫して否認していたが、昭和五一年三月一七日に自白するに至り、①ないし⑤の自白をした訳であるが、①ないし③の自白は、わずか二日間の間になされたものであり、その後④の自白がほぼ六年間維持されているのである。④の自白の結果田島の遺体が発見され、殺害方法も遺体の状況と合致している点から考えると、④の自白は、いわゆる秘密の暴露を含むものであつて、それ自体において信用性の高いものである。他方⑤の自白は、殺害方法が遺体の状況と矛盾し、共犯者の点についても問題が存すること、通帳窃取の点も関係証拠と相容れないこと等から考えると、被告人のねつ造した虚偽の自白であることは明白といわざるを得ない。また④の自白についての弁護人指摘の点も前判示のとおりであつて、④の自白の信用性を左右するに足るものではない。

以上のとおりであるから、⑤の自白は信用性に欠け、④の自白こそ信用性が高いと考えられるから、田島事件についての弁護人の主張はすべて採用できない。

(確定裁判)

被告人は、昭和四八年一月二六日大宮簡易裁判所で窃盗罪により懲役一年六月(四年間執行猶予)に処せられ、右裁判は同年二月一〇日確定したものであつて、右事実は検察事務官作成の前科調書によつて認める。

(法令の適用)

被告人の判示第一の所為は刑法六〇条、二四〇条後段に、判示第四の所為は同法六〇条、二四九条一項に各該当するところ、所定刑中判示第一の罪について無期懲役刑を選択し、同法四五条前段及び後段によれば、右各罪と前記確定裁判のあつた窃盗罪とは併合罪の関係にあるから、同法五〇条によりまだ裁判を経ない判示第一及び第四の各罪について更に処断することとするが、判示第一の罪について無期懲役に処すべき場合であるから同法四六条二項本文により他の刑を科さず、なお犯情を考慮し、同法六六条、七一条、六八条二号を適用して酌量減軽をし、その刑期の範囲内で被告人を判示第一及び第四の各罪について懲役一四年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中二〇〇〇日を右刑に算入することとする。

被告人の判示第二の所為は同法一九九条に、判示第三の一の所為は同法二四〇条後段に、判示第三の二の所為は同法一九〇条に、判示第五の一及び二、判示第六の一ないし三の各所為のうち有印私文書偽造の点は同法一五九条一項に、同行使の点は同法一六一条一項(一五九条一項)に、詐欺の点は同法二四六条一項に、(判示第五の一の各罪については更に同法六〇条)、判示第七の所為は同法六二条一項、二四九条一項に、判示第八の所為は同法六〇条、二五〇条、二四九条一項に各該当するところ、右の各有印私文書偽造とその行使と詐欺との間には順次手段結果の関係があるので、同法五四条一項後段、一〇条によりいずれも一罪として最も重い詐欺罪の刑(短期はいずれも偽造有印私文書行使罪の刑のそれによる。)で処断することとし、各所定刑中判示第二の罪について無期懲役刑、判示第三の一の罪について死刑をそれぞれ選択し、判示第七の罪は従犯であるから同法六三条、六八条三号により法律上の減軽をし、以上は同法四五条前段の併合罪であるが、判示第三の一の罪につき死刑に処すべき場合であるから同法四六条一項本文により他の刑を科さず被告人を判示第二、第三、第五ないし第八の各罪について死刑に処し、押収してある普通預金払戻請求書五通(昭和五五年押第三三三号の5、6、24ないし26)の各偽造部分は、判示各偽造有印私文書行使の犯罪行為を組成したもので、なんびとの所有をも許さないものであるから同法一九条一項一号、二項本文を適用してこれを没収し、訴訟費用は、刑事訴訟法一八一条一項但書を適用して被告人に負担させないこととする。

(量刑の理由)

一本件犯行のうち小林隆雄、佐藤朝三、田島不二夫の三名を殺害した各犯行は、昭和四七年二月一三日から昭和四九年二月二二日までの間、毎年一人ずつを石塊などの鈍体で殴殺していつたという犯罪史上稀に見る凶悪かつ重大な事犯である。

二小林事件は、佐藤朝三、小林隆雄、被告人の三名が競輪に溺れるあまり、いわゆる呑み屋を始めようと小林の提供した二〇〇万円の資金を佐藤において被告人を使い走りに使つて勝手に車券買いをして数か月の間に六〇万円程に減らしてしまい、借金返済に追われて困つていた小林から連日のようにその返済、金策方を要求され、その対応に窮したことから、佐藤及び被告人が共謀のうえ、小林に対し、金を貸してくれるところがある旨言葉巧みに誘い出し、被告人運転の自動車に同乗させ、途中人気のない雑木林付近に至るや、計画通り小用をするようにし向け、小用中の小林の背後から、佐藤において金槌で小林の頭頂部を殴打し、倒れた同人の頭にシートカバーを被せ、被告人が麻縄で首を絞めつけ、佐藤において更に金槌で数回頭部を殴打するなどして殺害し、百数十万円の支払いを佐藤に免れさせたうえ、小林の死体が決して発見されないようにと、死体を砂利採取跡の穴に埋めた(その後穴が埋め戻されているため、結局死体は地下約六メートルもの地点に埋められることになつた。)という計画的かつ冷酷な犯行である。

佐藤事件は、右小林殺害ののち、佐藤と共に盆栽の窃盗を重ね、被告人が逮捕された際、佐藤から、弁護料、保釈保証金、被告人の家族の生活費等を負担するから共犯として佐藤の名を出さないで欲しいと頼まれ、その要求を容れて被告人の単独犯行ということにして裁判を受け、前記確定裁判となる執行猶予付判決を受けたものの、その後佐藤が約束を果さないばかりか被告人を次第に冷たく扱うようになり、また、佐藤が小林殺しを他に言いふらしたりするのではないかと危惧し、佐藤を殺害して禍根を絶とうと決意して犯したものであるが、その態様は、あぐらをかいて買物袋から品物を取り出している同人の背後から、重量約六キログラムのダルマジャッキでいきなり頭頂部を殴打し、仰向けに転倒した同人の頭部、顔面等を更に殴りつけて惨殺し、その死体を小林の死体同様砂利採取跡の穴に埋めたというこれまた冷酷非道な犯行である。

田島事件は、日頃親密に付き合つてきた田島が、家を処分して得た大金を預金していることを知るや、単にギャンブル等の遊興費欲しさから殺害の機会を窺い、たまたま銀行に車で送つて欲しい旨頼まれるや、この機会を逃してはならじと荒川河原に魚釣りに誘い出し、人気のなくなるのを見計らつて、付近にあつた重量約七キログラムの石塊でもつて、魚釣りに熱中している同人の背後から頭部を殴打し、仰向けに倒れた同人の顔面付近を更に数回殴打し絶命させ、死体を遺棄しに行く途中、印鑑と預金通帳を強取し、死体は同じく砂利採取跡の穴(埋め戻され、結局一〇メートルもの地下に埋められることになつた。)に遺棄したという、金のためには友人の生命も全く意に介さないで惨殺したものであり、残虐性もここに極まつた犯行である。

三これら各犯行は、しつこく金銭の返還要求を受けたため(小林事件)とか、あるいは、単純に遊興費が欲しい(田島事件)という金目当てのものであるか、自分の身かわいさから共犯者を殺害するというもの(佐藤事件)であつて、いずれも身勝手な理由で敢行したもので、動機において同情すべき余地は全く認められない。

また、その犯行態様も、いずれも重量のある金槌、ダルマジャッキ、石塊で無防備の被害者の頭部を殴打し、反撃のいとまもなくほぼ一撃のもとに殺害したものである。そのうえ、犯跡を残さぬためその頭部をビニール袋等でおおい、更に首を絞めるなどの行為に及んでおり、死体も砂利採取跡の深い穴に埋めている。佐藤事件、田島事件の犯行の手段、方法は、小林事件を模倣したものと思われるのであつて、その点佐藤朝三に責を帰せられるべき一面の存することは否めないとしても、本件各犯行は、いずれも用意周到に敢行されたものであり、攻撃が極めて強力であり、死体の隠蔽も巧妙といわざるを得ない。被害者は、いずれも被告人の友人であり、全く予期せぬまま非業の死を遂げた被害者らの無念さには測り知れぬものがある。

四各犯行後の被告人の態度・行動を見ても、小林事件については、殺害後小林の妻や養子龍雄が被告人に小林の行方を尋ねて来た際、及び小林龍雄の土地について龍雄の替玉を使つて売却した件に関する民事事件で裁判所において証人尋問を受けた際にも平然と虚偽を述べていたばかりでなく、警察の追及から逃れるため友人関輪晴夫に対し、小林との関係などについて積極的に嘘をつくように申し向けるなどしていたこと、佐藤事件については、殺害当日の夜、佐藤が夜逃げでもしたように見せかけるため、同人が几帳面に記帳していた競輪の出目表を沼に投棄して犯行の発覚を防止するなどし、その後佐藤方の整理をした際に、長谷部が佐藤の預金通帳を見付けるや、長谷部と一緒になつてそれを利用し、銀行から預金をおろしていること(判示第五)、田島事件については、同人の妹弟が騒いで犯行が発覚することをおそれて、田島名でその妹宛に五万円を入れた封筒をポストに入れておいたり、他人に依頼して田島方に電話をかけさせ、あたかも田島が女性と家出をしたように装い、そのうえ田島の弟と越谷市へ田島を捜しに行くふりをするなど積極的に犯行隠蔽工作を行なつており、強取した通帳で引出した三一二万円(判示第六)は遊興費などに費消するなどいずれの事件においても犯行後悪辣な行動を累行しているのである。

五各犯行の被害者らは、いずれも素行は必ずしも芳しくなく、家族らに対し多大な迷惑を掛けていたものではある。すなわち、小林隆雄は自己の土地建物を抵当に入れるまでギャンブルに熱中し、そのため、土地を養子龍雄名義に移され権利証や印鑑等も小林の自由にならないように監視されていたところ、被告人や田島らの関与でその土地を抵当に入れ、更には売却したりして財産を食い潰してしまつた者、佐藤朝三は、詐欺罪での服役を終えたものであるのに、被告人と共に小林事件や盆栽窃盗を敢行し、判示第四の恐喝を行なつたり、田島とも小窃盗を繰り返し、離婚した妻からは金銭をせびり取つていたりしていた者、田島不二夫は、定職に就かず年中酒ばかり飲み、妹弟と相続した土地建物を妹弟に無断で売却するなどし、また、佐藤と共に小窃盗を敢行したり、小林が龍雄の土地を勝手に抵当に入れるに際し龍雄の替玉となつたりしていた者である。しかしながら、被害者らは、如何に家族や他人に迷惑を掛けていたとはいえ、理不尽に殺害されなければならない程のことをしていたわけではなく、その心中は察するに余りがある。また、当時身内のいなかつた佐藤は別としても、残された家族も、小林や田島が失踪するや、その安否を気遣い、八方手を尽くしてその行方を捜して意気消沈した日々を送つていたものであり、土中に埋められて変り果てた肉親の姿を見て被告人に対し極刑をもつて臨んで欲しいと申述しているのは嘘偽りのない心情と認められる。佐藤の離婚した妻も佐藤の供養を怠らずその悲しみの情をあらわしている。

六本件各犯行が、毎年一人ずつを殺害していつた連続(強盗)殺人事件として、社会の耳目を聳動し、平穏な地方都市の住民らに与えた衝撃は測り知れない。

七被告人は、現在においてはとても三人もの生命を平然と奪い去つてきた人間のようには見えず、一見悟り切つたような表情をしているものの、その実従来の自白を覆し、既にこの世にいない長谷部、田島を共犯者に仕立て上げ、自己の役割を従属的なものとする事実を構築し、少しでも刑責を軽減しようとするなど自己保身的な性格は全く変らず、反省の情も微弱と見受けられる。

八被告人は、小学校時代成績が良く、進学を勧められたけれども、家庭の都合からそれを断念せざるを得なかつたような事情は認められるが、当時としては、取り立てて不遇な境遇に育つたものではない。慢性中耳炎から難聴になつており、身体上若干不自由なところがあるものの、精神障害は認められず、その精神状態は正常域にある。しかしながら、性格は内向的で対人不信感、猜疑心の強い人物であつて、すでに昭和二九年に強盗罪で懲役三年(五年間執行猶予)、昭和三六年に窃盗罪で懲役一年二月の実刑、昭和四二年七月に窃盗罪で懲役一年(三年間執行猶予)、昭和四八年一月に窃盗罪で懲役一年六月(四年間執行猶予)の言渡をそれぞれ受けており、その最後の確定裁判の前後に本件各殺人事件等を犯し、また恐喝等(判示第四、第七、第八)の犯行もいとも容易に敢行するなど、その犯罪傾向は顕著に昂進しており、一般的な法規範遵守の意識は著しく低いといわざるをえず、もはや教育的処遇に期待を寄せることは困難と思料される。

九これら諸事情を考慮すると、確定裁判以前の小林事件については、殺害行為を直接担当せず佐藤が主犯と考えられ、被告人は従たる役割しか果していないこと、強盗殺人罪に該当することは否定できないが、共犯者の佐藤において返還を免れた金員の性質が権利性の弱いものであること、最初の殺人行為であること等を考慮して無期懲役刑を選択のうえ酌量減軽をして主文の量刑が相当と認められるが、佐藤事件については、被告人にとつて二度目の殺人行為であること、小林事件の共犯者の仲間割れの事件であることなどを考慮すると無期懲役刑の選択が相当であり、田島事件に至つては三度目の殺人行為、しかも結局は三一二万円もの大金を奪つたに等しい強盗殺人事件であることのほか、犯行の動機、態様、遺族の被害感情、社会的影響、被告人の年齢、前科、犯行後の情状等を併せ考察すると、被告人の妻子、兄弟らの心情、被告人の実兄が葬儀費用八〇万円を提供していること等被告人に斟酌できる一切の事情を考慮しても、その罪責は誠に重大であり罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも、極刑をもつて臨む以外にはなく、被告人を死刑に処することはやむをえないものと判断した。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官杉山忠雄 裁判官金山薫 裁判官久我泰博は転補のため署名押印できない。裁判長裁判官杉山忠雄)

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